※名有りモブ、男女各1名出てきます
※モブとの恋愛はそれぞれなし
※今回は桓騎と信は出てきません




その男の名は勇と言った。
名字が無ければ字も無かった。微賤の出で、みずぼらしく布きれ同然の服を肩から掛け首都に行く途中の川に掛かっている橋の上で、小さくうずくまっていた。
邸第の所従がたまたま買い出しに行く途中余りにも人手が足らない、金をやるから手伝ってくれと声をかけたのがこの男だった。背は高くもなく低くも無く。痩せ細っている訳でもなく、数日前よりいたらしい。その前に何をしていたかは頑なに口を割らず、自分の過去の話を振られると何処かへ消えてしまう、そんな男だった。
取り立てて特徴はない。強いて言うなら鼻の形が整っており、筋も通って低くはない。身を綺麗にすれば、見てくれ位は良くなるだろうといわゆる先行投資だった。もしこれでこの男が物盗りだった場合は首が一瞬で跳ねられる事は覚悟しているが、それでも過去にいくつか人間を拾ってきてそこそこ仕える人間に仕立て上げている実績もあって、主に咎められることはまず無かった。
「今日は客人がくるそうな」
「はぁ」
勇の指導についている男が得意げに話かけた。主の予定は知っていて当然、という責任とこれまで仕えてきた自負があるのだろう。自信を滲ませている顔は鼻息が少し荒くなったのか、鼻の穴が膨らんでいる。
「勇、お前が客人に主のところまで案内しろ」
「え、俺がですか」
「お前もこの屋敷に来てから月日が経つだろう」
「それはそうですが」
突然男から役目を振られ、勇は驚いた。この屋敷で様々な雑用を行っているが流石に客人への案内は初めてで、またこの広すぎる邸第の室や堂の役割をいくら日が立ったとは言え未だに全てを把握はしきれていなかった。失敗させ辱めたいのかという考えが頭を掠めたが、男からは悪意は見て取れずどうやらそうではないらしい。
「お前は飲み込みが早い。早い内に私の補佐をして欲しいのだ」
「いや、しかし……大役ではありませんか? その客人が気難しい人物なら切り捨てられるかもしれません」
「ふむ」
男が腕組みをし、唇を突き出す仕草をする。一考してくれているのだろうか、と勇は期待をかけてみる。
「やはり、お前が一番適任だと思うがな」
「そんな……」
適任、と言われてしまい勇は絶句した。期待をされていることは心から嬉しく思う。ここの屋敷に来てからというもの衣食住全部良くして貰っている上に、仕事まで割り振って貰える。かつての暮らしぶりとは打って変わりすぎていて毎日がめまぐるしく替わり、また充実している日々を過ごしている。
しかしそれはあくまでも雑用をしている時であって、主の客人の相手など自分がしてもいいのだろうかと不安が心を乱してくる。失敗すればどうなるか分かったものではない。最悪死ぬ可能性だって十二分にあり得た。
「ああ、それにな。気難しい人物では無さそうだぞ」
「本当ですか?」
勇の不安が若干だが払拭される。男の顔を見ようと横へ顔を向けると、男がこちらへ顔をやらずつらつらと話を進めた。
「あくまでも侍女達が噂しているだけだが、飛信隊の者がやってくるそうな」
「飛信隊?」
「お前、しらないのか?」
噂話を好まない勇は自分が知らない隊の名前を口にすると、男が目を丸くしながらこちらに顔を振り向けた。勇は素直に首を縦に振る。すると男が再び顔を戻し、腕を組み直した。
「この屋敷の主――桓騎様は分かるよな」
「ええ、仕えていますので。しかしあまり顔は合わせないですが」
この広すぎると言える屋敷の主は、この辺りの土地を治めている。と言っても人々に施しはしたりしないものの代わりに酷い税を掛けるわけでもなかった。自分たちにはこの屋敷で暮らしていける程度の少ない給金が出るが、博打や女を買い歩いたりしなければ十分やっていける金額だった。勇は独り身だったので養う家族も居なければ、飲む打つ買うの三拍子に特に興味もない。時々市場に出てくる珍しい陶器が気になるぐらいに留まっており、別段この暮らしに文句はなかった。
そんな主はとんと顔を出さない。最初に拾われた時に挨拶をさせられたが、それも跪き頭部を下げながらだったので顔の前に落ちている髪と髪の間から薄らとしか見えなかった。後にも先にもこれだけだ。
「そりゃそうだ。将軍だからな」
ああ、と勇は心中で手を叩く。合点がいった。確かにそれなら会うこともめったにない。どういった職務をしているかは知らないがこの戦乱の世、恐らく遠征が多いのだろう。それは顔を合わせることもまずないことも頷けた。
「で、その飛信隊とやらは一体?」
「飛信隊は下僕の成り上がりの将だと噂で聞く」
勇は男に隊の詳細を尋ねた。男は組んでいた腕から前腕を上げ、指を立てながら勇に得意げに話す。
「えっ」
「隊長殿が破天荒らしい。それで今は将の座にいるそうな」
「下僕の……」
勇は感嘆を上げ、その後に続いた男の言葉を殆ど聞き流していた。下僕の出と言うことは、自分と同じでは無いか。そんな人物がいたなんて知らなかった。この秦国では隣の楚国よりは貴族がもてはやされ、また貴族による弾圧はそこまで酷くないと市場で買い物している時に亡命してきた市場の行者から聞いた。楚国の器は南方ということもあってか、秦国のものとは異なっており、動物の文様が数多く彫られていることがある。勇が市場に行って実際に手に取り、眺めていると声を掛けられたので良く覚えている出来事だった。
とはいえ、将になるには武功をあげなければならない。どのように上げてきたのか、そもそもどうやって戦に参加したのかが気になった。
尋ねても失礼ではないだろうかと勇は思ったが、首を横に振り期待を振り払う。あくまでも主に仕えている身で客人と言葉を交わすなど、夢のまた夢だ。
顔を上げると、不思議そうな顔をしている男が目に入る。どうやら勇が突然首を振ったことを不思議に思ったのだろう。訝しげに眉を寄せながらこちらを見ていた。
「どうした。虫でも飛んできたのか」
「あ……、はい。振り払ってました」
「そうか。客人はまだ分からないが、俺が手伝いをしてやるしそう気負うな」
男が軽く笑い、肩を後ろから勢いよく叩かれ励まされた。男は会話を終えると、他の者が仕事を放棄していないかを見回りに行ったようだ。勇の今日の職務は庭掃除を任されている。落葉樹が至る所に植えられている屋敷の中を履いて回る。勿論自分一人ではないが、夏も終わりそろそろ足下が冷えてくる季節に掃き掃除は欠かせない。落ち葉を集め、その拾い集めた枯れた葉は堆肥になる。そう男や先に仕えていた者から教えられ、なぜ堆肥になるかは知らなかったが、この屋敷ではなく周りの集落の者にとっては欠かせないものらしい。
一人取り残された勇は廊下から今から掃き掃除に行く庭の景色を見る。主が創案したのかは分からないがいつ見ても色とりどりの庭の景色は色とりどりで、目に飛び込んでくる鮮やかさはいつだって息を呑むほど美しかった。それが冬期の雪であってもだ。
はあ、と大きくため息をついて肩を落とす。大変面倒になってきたと勇は思った。何故自分が抜擢されたのか分からない。それなりに真面目に任せられた役割を果たしてきてはいると誇りは持っている。しかし、一つ一ついつも完璧な訳ではないし忘れてしまうことだってしばしばあった。
他にももっと適任の者がいるのではないか、と腕を組もうとしたその時後ろから少し高い女の声がかけられた。
「何ぼさっとしてるの?」
「ああ、桐か」
桐は勇より少し早くこの屋敷へ仕え始めた者で、先ほどの男と同じく自分の指南役として面倒を見て貰っている。屋敷には女が多く仕えていたが、男も自分も含め十数人ほどいる。他の下女とは全くと言っていいほど会話しないが、桐だけはこちらからも話しかけたりするほどの仲だった。
「庭が、綺麗だと思って」
「そうよね。中庭なんていつ見ても魅入るわ」
勇は桐の言葉に小さく縦に頷いた。未だ緑が多く、所々黄色に変わっている所がある位で未だに秋まで色づいてはいない。それでも廊下を通る度、中庭を眺めてしまうのは確かで勇はこの廊下を歩くのが好きだった。
桐に顔を再び戻し、溌剌とした瞳に視線を送る。桐は小首を傾げて勇を見た。
「何?」
「いや、声をかけられたから、どうしたのかと」
「どうもしないわよ。何でそこに立ってるから」
「ああ、さっきまで話していて」
男が客人の相手をしろ、と勇に言っていた話のさわりを桐に少しだけ喋ると、顎に手をかけ神妙な面持ちで考え込み始めた。
「え、何か考えることでもあった?」
「そんなことないんだけど、何か意図がありそうで」
「そうなんだよ。突然俺に言われても」
二人してその場で多少考え込む。しかし男の頼まれごとの狙いはやはり勇も、そして目の前で自分の為に考えてくれている桐にもどうやら分からなかったらしい。
「やっぱり分かんない」
「大人しく相手をしろっていうことか」
桐が顎に掛けていた指を外し、大げさに肩をすくめて勇を見やるとそれに呼応するかのように勇も桐へと不安げな視線を投げかけ、それからほんの僅かに顔を俯け目線を反らした。
「大丈夫よ。色々覚えてきたし。きっと多少粗相をしたって許してくれるわ」
「そうだろうか」
「ええ。私も一度、失敗してこっぴどく怒られたこともあるし」
ゆるゆると顔を上げて桐の表情を見ると、怒られたことを思い出したのかいつもは自信がありそうな眉が苦笑いの為、少し頼りなさげに垂れ下がっている。男と同じく桐もよく働き、よく面倒を見てくれている。それなのにこの桐が叱られることなど想像が出来なかった。
「桐が?」
「そうよ。あれは私がここにきて、少ししてからだったかしら」
主の客人に申しつけられていた茶とは違った嫌いな茶を出してしまい、その当時桐の面倒見を見ていた女からそれこそ感情的に金切り声を上げられながら叱られた、という話だった。客人からは咎められず、特に何も起こらず、また主から流石に何か言われ死を覚悟したが桐自身を呼び付けるようなこともされなかった。その女中は訳があり止めたらしく、代わりに今勇へ教えて回るあの男が入ってきたらしい。
「なら、桐の方がここへ仕えているのは長いということ?」
「そうなるんだけど、でもちょっと違うの。あの人は王翦様のところに居たらしいのよね」
「へぇ……」
あまり身の回りの人物に興味がない勇は、王翦という言葉にいまいち想像が出来なかった。どこの誰かも分からず、桐は自分がその人物を知っている体で話を進められた。
「で、理由は良く知らないけれど、主様のところへやってきたそうよ」
他の女中と噂話で盛り上がるのだろう。男の素性は結局わからないが、どういうわけかこの屋敷の主に仕えることになり、勇へ師事することになったのは紛れもない事実だ。どこぞの誰かには興味はなく、勇は既にこの後の掃き掃除をどこから行うかの算段を脳内でつけていた。
「ねえ、聞いてた?」
「桐がこっぴどく怒られた人から、変わったってことは分かった」
「ならいいんだけど」
桐、と遠くで名前を呼ぶ声がして勇も共にその声がする方向へと背ごと振り向いた。大きく手を振って、手招きをしている。桐はあ、と大きく口を開き何かを思い出した様子で指を唇にやると慌てて勇へ頑張ってと激励を送り慌ただしく呼び声がした方向へと消えていった。
「頑張ってって……何をどうしたらいいんだ」
ひとり取り残された勇は再び大きく肩を落とし、ため息を小さく吐き出した。任されてしまったことは仕方がない。半ば諦めが肝心かもしれないと勇は思いながら今度こそ庭の掃き掃除をするため、廊下を歩き出す。
顔を知らない客人はどんな人物だろうか。そのことに好奇心が微塵も感じられず、不安だけが募る勇は再び深呼吸をするかのように溜め息をつくだけだった。