※名有りモブ、男女各1名出てきます
※モブとの恋愛はそれぞれなし
※今回は桓騎と信は出てきません




とうとうこの日がやってきてしまった。
勇は井戸の水を汲み上げ木桶に貯めた水を掬って顔をに水をかける。ひんやりと冷たい水が皮膚の表面の温度を下げてはくれたが、心中の気持ちはいつまで経っても晴れないままだ。それもそのはず。仕えている屋敷に、勇が持てなさなければならない客人が来てしまう日取りであったからだ。今日まで形容しがたい不安な面持ちで与えられた雑務をこなしてきたが、男にはやれそんな顔をしながらするな、や桐には占いしてきてもらったら、等周りからもとやかく言われそれもあってか食事も余り喉へ通らず、いささか頬がやつれたような気もするが、それ以上に勇は相手方に対し粗相をしないかが一番の懸念材料だった。余りに心配振りから男にもう一度断りを伝えると「大丈夫。主様なら斬ってしまわれるだろうが、みな主様ではないだろう」と豪快に一笑しその場を去ってしまったので、全く取り合えってもらえなかったことを今更ながら思い出す。
肩の荷が余りにも重すぎる。今日の朝餉は一口でも嚥下出来ればましかもしれない。勇は手の平を丸くし水を再びすくって今度は口元へやり口の中を濯ぎ、地面へと吐き出した。
暗雲としか言いようのない感情を吐き捨てたかったが、それも上手くはいかず結局勇自身に留まることとなり、深いため息をついた。今日という日が早く終われば良いのに。
桶を持ち、割り当てられた室へ戻ろうと渡り廊下へ向かっていると、勇の指導に当たっている男が庭の隅の掃き掃除を既に行っていた。朝餉は既に食べ終わったということだろうか。歩いていく足音で気が付いたようで、箒を手にし、先端の確認のために俯けていた顔を上げ、おお、と大きく手を振りながら勇を手招きした。
「いよいよ今日だな」
皺の多い顔を更に多くし、高らかに笑う。その声で近くの木の枝に止まっていたらしい鳥が葉の間から逃げ出した。あの鳥のように、身軽に逃げられたらと男に向けていた視線を鳥の尾の先へと移し、勇は空へ羽ばたいていく様子を淡々と眺めていた。
鳥が彼方まで飛んでいって終い、既に目で追えなくなり勇は男へ言葉を返した。
「気が重いです」
「前にもいっただろう。客人は主様ではあるまい」
「しかし……」
今日という日を迎えるにあたり、他の者達もそわそわしていた。それもそのはず、客人がくるとなればその従者達にももてなしをしなければならず、料理や舞子、その衣装や着付け、それに伴って掃除もしなければならず、自分ならずとも気が立つ者が多くなっていることは知っているが、その当人を迎えなければいけない勇より胃が痛いものがいたら是非名乗り出てほしいものだ、と思っていた。顔を合わせるのだって、恐らく勇自身が一番長いだろう。知らない者の顔を見なくてはいけない、そして粗相をしてはならない。勇にとって一番辛い仕事だった。
「もし尋ねてこられたら真っ先にお前に伝える。まずは庭の手入れを頼んだ」
男に肩を軽く叩かれ、勇は力なく足を進めた。持っていた桶を室に戻しそれから再び庭に戻る。朝餉を食べる気は起こらず、呼び出しに来た下女へ断りを入れてから庭へと行く。庭にいれば他の来訪者にも気がつけるし、その場合は男を呼びに行けば良い。肝心な相手をしなければならない客人はそもそもどんな様相で訪れるのか。何一つ開示されない情報に、勇は再び頭の中で不安と戦いながら既に枯れてしまった花殻を摘んでいく。日に日に涼しさと寒さが入り混じるようになったこの気候で、花も流石に耐えきれないのか枯れることが多くなり、庭園に咲かせている花も弱る速度が早くなっている。この殻を摘む作業は既に咲いている花への影響がないようにするため、と勇はここへ来た当初桐に教えてもらったことを今更ながら思い出す。でないと、今度は何も食べて居ないのにこの華やかな庭に胃液を吐いてしまいそうで、気を紛らわせることに必死になった。
日が高く昇り、季節の変わり目ということもあってか今日は珍しく服の中に汗をかくぐらい暑くなった。そろそろ客人は来ても良いはずなのだが、一向にその気配を感じられない。いつでも出迎えられるようにと問塀の近くで作業をしていた勇の耳には時折車らしき馬と車輪が引かれる音は聞こえてきたが、この邸弟の前で止まるどころか素通りしていく始末で待ち人はなかなか来ない。こんな仕事早く終わって楽になりたいのに、それをさせてくれないのは帝のいたずらだろうか。こんなことなら市場に赴き、桐の言うとおり占いをしてもらえば自分の命運を知り得たかもしれない。勇はどんどん違う方向に進んでいく思考を一度元に戻す為、摘んでいた花殻を近くにあった手箕に落とし、しゃがむために折っていた膝を伸ばして続けて自分の上体も大きく伸ばした。
ふと渡り廊下をみると桐やほかの下女たちがなにやら慌ただしく小走りで通り過ぎていく。勇は首を傾げながらその様子を眺めていると、今度はまた違う下女たち、そして男たちの姿も混じっている。流石の勇もこれは一大事だと思い、地面におかれていた手箕を持ち、枯れ葉が山になっている場所へ捨てに行ってから道具を片す。同じようにそそくさと忙しい体を装いながら、同じように庭の掃除をしていた男の元へ駆け寄った。
「どうかしたのですか?」
「客人が来るそうなんだが、その前に違う方がお見えになるらしい」
「らしいとは?」
「これがまだ分からなくてな」
それで渡り廊下を駆けていく者達は忙しそうにしていたのか。勇は合点がいった。他の客人なら勇自身の担当ではないので胸をなで下ろす。男も悠長に構えているので、きっと誰かに割り振ったのだろう。勇はそう考え、男へと口を開く。
「俺が相手する客人ではないですよね?」
「それが……」
「来たぞー!!」
塀より少し高く作られている見張り台の男から声が上がる。この者のおかげで客や来訪者が来ても前もって門の前に勇達のような使いの者が出迎えることが出来る。勇は他の者の様子を伺いながら自分の客人への態度を見様見真似で真似しようと思い、こっこりと今から来る客人を伺うことにした。
幹の物陰から、様子を盗み見る。門のくるるが軋みを立てながら外側に開き、客人を迎えるために皆が手の甲を隠し、そのまま恭しく腰から頭を下げた。
「お頭は?」
聞き慣れない野太い声がする。そこ声に顔だけを半分覗かせ、その姿を確認すると主とほぼ変わらない背丈の男が麻袋を肩に掛けて佇んでいた。麻袋の中身が時折跳ねる様に動くのが見え、思わず勇は目を剥く。勇の腕よりも倍以上太い腕が押さえつけているのはどうやら膝の裏らしき場所で、それが人だと認識できたのはもう一度その麻袋がもぞもぞと動いてからだった。
お頭、と呼ぶのは主の軍の者の特性と言うことを男から聞かされている。勇は実際この屋敷に仕えてから、数回耳にしたぐらいで聞き間違いとさえ思っていたからだ。本当に主のことをお頭、と呼ぶ人物を見るとは未だに信じがたかった。
「主様は本邸にいます」
返事はせず、頷きもせず。大男が出迎えた者へ背を向けすぐさま本邸へと膝を出した。眼光は鋭く、左目に輪のような刺青をいれている大男は、麻袋を肩に担ぎ大股で歩いていく。
勇はその後ろ姿を木の陰から見届けてから植栽を跨ぎ、ふうと安堵の息を大きくついた。大男の相手をしていた者は既にこの場から立ち去り、鳥の鳴き声だけがするこの庭に残った勇はただ一人佇んでいる。晴れているのにも拘わらず、嵐のような出来事に迎える客人のことなどすっかり記憶の彼方に追いやってしまっていたが、今し方思い出してしまい勇は顔をしかめた。それにしたって遅いのではないか。勇は門を再び見るが、入口を閉ざして開きそうになかった。仕方がないと再び持ち場にいた場所へ戻ろうと歩を出した時、大慌てで勇の名を呼ぶ男の声に顔をゆっくりあげ、小さく会釈する。
「どうかされました?」
「勇、落ち着いて聞いてくれ」
「はぁ」
勇の気の抜けた返事など気にも止めず、男が真剣な面構えでこちらに視線を送る。未だかつてないその気迫に勇は気圧されそうになるが、ぐっとこらえて男の言葉を待った。
男の喉仏が上下し、それを見届けてから改めて男に目線をやると唇が大きく震えだし、それから絞り出すような声で勇へと話かけられた。
「先ほどやってきた男が麻袋を担いでなかったか?」
「あの、人らしき物ですか?」
「ああ。さっき確認したら、お前が相手を客人だそうな」
勇の頭には疑問符が浮かんだ。嵐の中心であった大男の担いでた人間らしきものは自分の客人だったと。勇は二、三度大きく瞬きをして小首を傾げる。
そんな訳あるのだろうか。夢を見ていたのでは、と勇は自分を疑ってみたが、肩に食い込みそうなほど力が込められているこの指の温かさは確実に現実で、他人事だった嵐は自分の身に降りかかってきたとんだ災難だとここで始めて自覚し、勇の顔から一気に血の気が引き真っ青になる。
客人の話し相手、そしてあの大男との対話、最後に主との謁見という三段構えが待ち望んでいるという事実に気が付いてしまった。頭をかきむしりたくなったが、まずは大男のところに行き、客人をどうするかという問題をなんとかしなければならない。肩を掴みこの状況をどうにか出来るのはお前だけだ、という懇願の目でみている男の方がこの屋敷に来てから長く、また誰かに仕えている期間も長いはずで年下の自分を頼られても正直どうなるか分からないのが勇の見解だったが、任されてしまったものは仕方がない。勇は何度目かのため息を大きく吐き、これ以上爪が食い込まないよう力を入れ怒らせていた肩の力を抜き大袈裟なほどがっくりと下げた。観念して、息を大きく吸い込み、そして吐き出してから言葉を発した。
「分かりました。あの大男のところへ行ってみます」
「頼んだ」
男の沈んだ表情が明らかに晴れやかになり、しかし緩んだ顔をもう一度引き締め、勇に真剣に頼み込んだ。勇は男の手首を掴んで肩口からようやく下ろし、男の目を見るとこちらの表情から視線を離さずじっと静かに眺めている。時折、市場で暇つぶしと勉強という名目で行う賭事で賽の目が三つとも並んでしまい負けた時と全く同じ気持ちになる。これ以上はどうしようもない。
勇はくるりと男に背を向け重たい足を本邸の方に向かって引きずるようにして踵を上げる。
「どうなるか分からないですから」
「それはこちらも同じだ」
肩越しに顔だけを振り向いて男に捨て台詞に近い言葉をかけると、男が慌てて助け舟に近い言葉が出てきたが既にその舟は泥で道連れということになる。どう足掻いても恐らく良い方向には転がらないだろう。改めて勇は肩を落とす。
気乗りは全くせず、胸中はともかく客の前に出るのだから体裁は整えて、光が届かず大庇の奥の暗い本邸を睨みつけ大きく足を踏み出した。