※単行本未収録につきネタバレ注意/761~762話の間


「桓騎は悪だろ、やっぱ」
録鳴未が突如、こちらに顔も向けず話を振ってきた。あまりにも唐突に話し掛けられ、信は目を見開いて録鳴未を見たが、こちらを見返す様子は全く皆無のようで信は諦めて顔を前方に戻した。朝から薄曇っており、秦への岐路の街道は長くしばらく平原が続いているが雨の心配はなさそうだ。
確かに談話をしていないとこの眺めも飽きてくることは確かなので、あの韓非との話し合いのことを混ぜっ返すのはあまり気が進まなかったが、とりあえず返事をして見せた。
「……俺はちげーと思う」
「あ?」
反論すると、露骨に不服そうな声音で録嗚未から返ってくる。はあ、と内心でため息をそっとついてみたが、意見を曲げる気はどうやら相手には無いらしい。それはそうだろう。将としては余りにも暴虐非道をつくし、自分も目標としていた王騎とはかけ離れすぎている。
それは理解している。分かっているがここに私情を挟んでしまうのが恐らく己の強さでもあり、もろさでもあった。
胸の中で意見をまとめてみたものの、依然として頑なに曲げようとしない相手の顔を見て語る気力が抜けてしまい、肩を大げさに落として信は顔を戻すと前を向け、会話を続ける。
「あいつと話してて思ったんだけど、桓騎は俺にとって殺したいぐらい憎かったのは確かだ」
「だろ?」
録嗚未の面持ちはもちろんこちらからは見えないが、恐らく首を大きく縦に振っているだろう。自分の言ったことは誤りがないと確信していそうな聞き返しだった。それだったら、どんなに楽だろうか。あの男のことが殺意を抱くほど反目していた。けれども黒羊丘、ギョウ、平陽と続き、宜安城でのことと、そして。
今はもう居ない自分を翻弄した男のことを思い出す度、下腹の奥底がぎゅっとしまるような、捉え所の無い感情が綯い交ぜる。信は心持ちを落ち着けるために大きく息を一度吐いて、再び録嗚未へと顔を向けた。
「でも、桓騎軍にとっては悪じゃなかった。端から見てたけどすげェ慕われてた」
自分が目の当たりにしてきた体験、重ねて砂鬼一家からわざわざ自分に告げられた話、生き残った摩論やオギコの様子からすると彼らはあの男のことを悪とは微塵たりとも捉えていないのは明白だった。馬に揺られ、出会ってからの4年を思い起こす。どれだけ悪感情を持っていても上官だったのには変わりない。その上で呼び出され第三者には明かせない間柄になったのもまた嘘ではなかった。恋情などという甘い感情ではなく、それは憎悪に限りなく間近鈍色の感情。
「はぁ?」
さすがの録嗚未もこちらに顔を向け、ようやく視線が合う。訝しげに見やる録嗚未の疑問符には納得しかない。ただ、言いぐさを聞いてほしかった。信は視線だけを僅かに下ろすと、また録嗚未を真正面から捉えた。
「じゃなかったら、六大将軍の一人にはなんねェだろ」
秦の六大将軍は目指すところの一つだ。今でもそれは変わらない。
「まーそれは確かに」
録嗚未がややあってから同意を返し、前を向いた。勝手に納得した様子で、すでに関心を無くしかけているのか信から顔を背けて前を向き、自分の上官の元へと馬と一緒に行ってしまう。
後方に一人で取り残された信は、韓非との受け答えでなぜ桓騎の名が真っ先に出てきたのか、自分でも腑に落ちなかった。共に微賤の出でありながら、考え方がまるで異なり、どこまでも自分を振り回した男。静かにあの男と酒を飲んでいる時に、悪意は感得しなかった。
否定したかった。でも、否定できるような立つ瀬はない。
「……」
これだからあの男のことを思い巡らせたくなかった。やっとの思いで立ち直ったと感情を抑えつけていたのに、何一つ上を向けていない。
「李信殿、そろそろ……どうされました?」
共に秦から派遣された吏官に後ろから話し掛けられ、目元を無理やり手の甲で強く拭った。吏官が不思議そうな声で信の仕草の不可解さを尋ねるも、信は無理やり笑顔を作り、声が聞こえた方へ振り返って明るく努める。
「カカカ、なんでもねーよ。で、どした?」
一介の将がこんなところで落ち込んではいられない。眉間にぐっと力を込めて気を引き締める。
そう自分に言い聞かせて吏官の報告を聞く他なかった。厭いを胸にしまい、触れられぬよう鍵をかけて心中の奥底に沈めておく。
あの男に二度と逢う日は、もう絶対に来ないのだから。


秦への帰り道、招いた韓非の警護の為、信と録嗚未が会話してたらいいなって話