「よっス」
彼は自分の顔を見るなりいきなり声をかけてきた。曲がりなりにも年上でありまた爵位も上である自分にこんなに気軽に話しかける相手などこの秦国のどこを探してもただ一人しかいない。
「何か用か」
努めて冷静に声を出す。まだ軍議は終わっておらず、木簡を取りに行く最中での出来事だ。確かに白熱しすぎて一度外の空気を吸おうと思ったのは間違いないが、声を掛けて欲しいなど一言も言っていない。
自然と眉間に皺を寄せてしまう。気分転換のつもりが面倒事を見事に引き当ててしまったが為に、挨拶をしてきた相手の前でこれ見よがしにため息をついてみせた。
「いや、何でもねーんだけど。相変わらず眉間に皺寄せてんなーと思ってよ」
「……放っておけ」
嫌みなど一切効かず、また皺のことを指摘されたがこれを作らせているのはどこの誰だ。紛うことなく目の前にいる、彼が原因だった。
さっさと気分を変えてしまおうと中庭へ行くため一歩足を踏み出し手を振った瞬間、官服の袖ごと手首を掴まれる。鍛えているため些か手首を最後まで掴みきれない、剣を振っている生傷が絶えない彼の指が絡む。
「放っておけるわけねーじゃん。そんな顔されてさ」
目をすっと細くし半ば睨み付けるような表情で彼を見やると、心配をしてさも当然という顔でこちらを伺うようにして覗きこんできた。一重で顔の面積に対して大きな眼、何事でも真っ直ぐ正面だけしか見ておらず人をまず疑わない黒い瞳、整い意思の強さを見せるつり上がった眉で自分を見つめる。彼はそういう人柄と言うことをあの王から暇さえあれば散々聞かされているのにも関わらず、無自覚に人の良さを見せつけてきた。彼の性格の一部分が酷く心をざわつかせる。未だかつて無い感情の名前を、目の前の彼は自分に押しつけようとしているような気がした。
「顔きれいなのに、もったいねーの」
一瞬、目を見張り耳を疑った。男の自分に対してこのような場で口説くような文句を言う状況に陥るとは思わないだろう。誰にでもそのようなことを口走るのなら見事な人誑しだ。
しかし彼は全く気にも止めていないのであろう、何度か目を瞬かせながら小首をかしげてさも当然のように言ってのける。飛信隊の将がこのような性格で、部下はさぞかし大変な思いをしているのだろうと、想像だけでも胃が痛みそうになる。
「お前は何を言ってる」
「何って、あんたのことだけど」
聞き返してみたがけろりとした顔で言い返されてしまい、膝をつきたくなる思いに駆られる。何を言っても無駄、というのはどうやらこう言うことを言うのだろう。小さくため息をつき、絡まっている指を丁寧に解いていく。半ば諦めの気持ちも含まれていたがいつの間にか自分の眉間の皺はとれ、改めて彼に向き直る。
小さく小首を傾げて、声には出していないが顔にはどうした、という疑問符が思い切り浮かんでいるのが手に取るように分かる。こんなにもわかりやすい表情があってたまるか、ともの申したかったが、遠くから彼の名を呼ぶ声が聞こえた。おそらく同じ隊の者だろう。
「お、渕さんが呼んでるから行くな」
「さっさと行け」
「じゃーな、昌平君」
軽く手を上げ、背を向けられる。吐き捨てるかのように言ってしまった台詞に、気にすることなく肩越しに顔を振り向かせ、笑いかけながら別れ文句を言われてしまった。ぱたぱたと革靴と石畳が踏まれる音だけが耳に届き、彼の背はどんどん小さくなっていった。まるで曇り空から晴れたときのような星の輝きだ。
自分でもどういう例え方をしていいか分からないほどの感情の溢れ方をしている。心拍が少し上がっているのを感じる。これが何を指し示しているのかは知り得ないが曲がりなりにも心配してくれていたのだろう、次に会ったときには謝辞を述べてやろうと心に決め、気分転換になったかどうかは分からないが軍議に戻る決意は出来た。
あの星はいつでも指標となり輝き続ける。
煌めきではなく、間違いなく輝きだ。


人誑しな信を無自覚に気になったらいいよねって話