雨の匂いだ。
ナツは浅い眠りより目を覚ました。鼻を掠める雨の、空気の湿った匂いはまだ情事の匂いを色濃く残している部屋のそこ彼処に漂っている。
隣で眠っている彼を起こさぬよう、なるべく静か
に自分に掛けられていた毛布をはぐ。どうしても布が擦れる音がしてしまい、彼が一瞬身じろいだが寝返りを打つためであって起こした訳ではなかった。
床に素足をつけると真冬よりかは若干冷たく無くなったが、それでもひんやりする。ぺたり、と頼りない音を出してカーテンの引かれている窓まで歩いた。
カーテンをあけると夜に溶けて見えないが、雨音はする。月明かりがなく、手元は殆ど真っ暗だ。
雨か。ナツは少しがっかりした。昨日、この彼の家に来る前に彼の家の近くの桜を見に行き、こ
の桜の色、ナツさんの髪の毛みたいでオレ、好きなんだよね、と照れるような台詞を平然と言ってのけた彼に一度蹴りを入れて照れ隠しをしたのを思い出した。
自分の髪の色。改めて桜を見るとそうかもしれない、と思う。丁度満開で、これから花弁が散るだけというその木を2人で眺め、こっそりどちらからともなく手を繋ぐ。恥ずかしいけど、嬉しいというのは恐らくこういう事を言うんだろうな、と思いながら。
しかしこの雨でもうあの満開の桜は終わってしまう。また帰り掛けに見ようと思っていたのに。春の天候は変わりやすいのはナツも勿論知っていたが、それでも目論見が駄目になってしまった。
はあ、とため息を一つついたところで視界がぼんやりと明るくなる。えっ、と驚き振り向くと彼がテーブルの上においてあるランプに火を灯して居るところだった。

「あっ、起こしたか?」
「今起きたこと」
「ならいいけど」

マッチの火を振って消し、ランプの取っ手を持ってそのまま彼はナツのいる窓際まで来る。
彼の首筋と胸元には自分が残した印があって、不意に恥ずかしくなり、振り向いていた態勢を元に戻してまた外を見た。
隣に立った彼もまた、外を見る。

「あーあ、雨降ってきちゃったね」
「おー」
「桜、散るの勿体な」
「…おー」
「あれ、ナツさんも桜のこと考えてたの?」

考えていたことを言い当てられてぎくっ、と背を伸ばした。
彼がこちらを見ずにふふっと、含み笑う声が降ってくる。

「…悪ぃかよ」
「いんや、ナツさんもそういうこと考えるんだなって」

考えちゃ悪いのかよ、と悪態を心の中でつく。桜、というより花は嫌いではない。クロッカスで始めて彼に出会った時にも首飾りをしていた。
あの時とは全く異なっている関係性。まさか身体を重ねるような中になるとは誰か考えただろうか。また一緒に見られなくて桜が散ってがっかりする位好きになるだなんて考えてもいなかった。
あの時はまだ、そうなる予感さえなかった。
そんなに遠くない昔を思い出す。ちらりと横目で彼を見上げるとランプに照らされてぼんやりとした輪郭を縁取っている。表情は先程笑ったので、口角が少し上がっているのが見て取れた。

「…お前ほどロマンチストじゃねぇし」
「ナツさんはロマン無さすぎ」

ナツの精一杯の返しは、あっさりと切られてしまった。苦笑されてしまう。
ロマンなんて無くても生きていける。隣の恋人は自分以上にロマンチスト。だからこそ、桜の事を起き抜けに口にしたのだろう。そして、ナツも考えていた事に驚いた。間違っていないし、自分でも桜のことを考えたのが意外だった。
それもこれも、彼の所為だ。彼が自分を変えた。そしてまた自分も彼を変えた。お互いがお互いに良い影響を与えている。
そう思いたい。

「…散っても、また、」

柄にも無いことを言っている、と自分でも思った。だが、自然と口をついて出てきた言葉。恥ずかしいけど、止めたくは無い。
彼は驚いて、顔を此方に向ける気配がした。羞恥で確認出来ずにいる。

「えっ?」
「また、来年一緒に」
「っ…!」

ごと、とランプを窓枠に置くのとほぼ同時に抱きしめられた。赤い頬は、彼の金糸の髪の毛でくすぐられる。
服をまとっていないので、お互いの体温を直に感じてしまい、それだけで先ほどの情事を思い出す。馬鹿みたいに声を出して、馬鹿みたいに出し切ったのに。身体は素直だ。
来年もまた。一緒にいたらまた見られるわけで何も今年だけに確執する必要はない。だから、言いたかった。花が散ってしまうのは寂しい事だが、自然の理。だったらまた次の年も一緒に見れば寂しくない。簡単な事だ。
突然、何も言わず抱き締められた事にナツは驚いて、つい語調を強めてしまう。

「っおいっ、」
「来年だけじゃなくて、その次も、またその次も、ずっと一緒に見よ?ナツさん」
「…ん…」

切なげに、だけど嬉しそうに言われて、嬉しくない筈がない。顔が緩みそうになるのをこらえて、ナツは小さく頷いた。
彼は更に身体を密着させてくるが、もう出ないものは出ないわけで。

「ちょっ…、もう、出ねぇって」
「オレも出ねぇけど、キスはいいでしょ?減るもんじゃないし」
「…おー、いいぜ」

肩に埋められていた顔を上げ、彼は目を細めて微笑む。この顔弱いんだよな、と思いながら了承して、ちゅっと啄むような口付けを交わした。
また、来年も、再来年も、ずっと一緒にいられるようそう願いを込めながら。



花弁が落ちても