嫌い。
まず、この感情が真っ先に出てくる。彼は国からは認められ、自分より高い地位にいることは分かってはいるがそれでも"嫌い"がまず出てきた。どういう間柄であれ、だ。
彼はどういう訳か自分が暇をしていると真っ先に私的に伝令を用いて呼び出してくる。伝令に理由を尋ねても分からないがお頭が呼んでるの一点張りで話にならず、渋々ついて行くと、案内された先はいつもの彼の別邸だった。伝令も彼から聞かされていないようで、ここに連れてこいという場所の指定と、待つのが嫌いな彼らしい手短い言伝のようだ。
国の将である彼は本邸といくつかの別邸を持っているようで、今日呼び出された場所は訪れたことがある場所で、こういった形で合うのは、数回目である。
最初は本当に訳も分からず、半ば連れ去られる形で連行され連れてこられたのを今でもよく覚えている。それとはまた違った心覚えと強く結びついて思い出されるのだが。
いつみても別邸とは思えない、豪華な作りだ。いつか自分も、などと考えていると正門の前におり、馬から降りるよう促された。帰りはお頭の指示に従え、とだけ伝えるとどこかに消えてしまう。顔を門へ向けると中から使用人が来ており、案内します、とだけ自分の顔も見ずに伝えられるとそのままスタスタと歩き出す。声をかける暇もなく、後ろへついて行くと直ぐさま彼の姿が目に飛び込んできた。
邸宅の前の庭先に敷かれて石畳の上に佇んでいる文様が施された木製の椅子に腰掛け、木製の机に陶器を右手に持ち、左手には装飾を施された磁器の器から酒らしきものを注いでいる姿がありありと見て取れた。
無意識に眉を潜め、彼を一瞬にらみつけ直ぐさま視線を斜め下に反らし追従していると、突然使用人が止まり、背に思い切りぶつかってしまう。
ごめん、と使用人に謝りながら顔を上げると、日差しに反射され手入れされた艶やかな濡れた黒髪が目に入ってくる。顔を顰めて、表情を読み取ろうとすると彼はいつも通り余裕たっぷりの笑みをたたえながら酒を口にしていた。

「んー」

使用人がお連れしました、とだけ伝えるとさっとどこかへ消えてしまう。今は陽も高いので昼餉の準備だろうか。その後ろ姿を目で追っていると、突然、自分へ彼が声をかけた。

「突っ立ってねェで座れよ」
「言われなくても」

ムキになりながら彼が座っている向かい側の椅子を引き、無遠慮に腰掛ける。上等な木材を使っているようで、自分が腰をかけても軋みなく受け止めてくれた。

「おら、飲め」

邸宅に着いて早々に酒を出される。酒は嫌いではない。目の前の男に差し出されるのが嫌だった。用意された陶器に並々と酒が注がれる。

「い、……いただき、ます」

普段使わない敬語が思わず飛び出してしまうぐらいには、警戒をしていたが毒を盛ったりするような彼ではなかった。それよりも一思いに首を跳ねるほうが得意まである。
陶器にそっと口付け、一口含むと普段飲んでいる酒とは全く別の、柔らかい口当たりに感動し、ぐいぐいと飲んでいく。

「旨ェだろ」
「……」

全部を飲み干してから、感想を促されると確かに彼の言うことは何一つ間違ってなかった。普段愛飲しているものとは違い、舌触りがよくそれでいて雑味のない丁寧な味。だからこそ、その一言に凝縮されていた。返事をどう変えそうかと一瞬考えあぐねたが頷くのもそれはそれで癪に障るし、無言で突き通すことに決めた。
返事をしない自分を彼は一瞥しただけで、また視線を落とし次の酒を注ぐと器を口に運んでいく。
彼がどれぐらい酒に強いかは知らないが、普段飲んでいるものかよりは幾分控えめな酒精だったので、たくさん飲んでも対したことはないのかもしれない。

「……今日」

このままずっと酒を飲んでいても埒が明かない。渋々自分が呼ばれた理由を聞き出すべく、重たい口をゆっくりと開き声に出した途端、伏せてはいるものの彼の鋭く刺さる眼がこちらを見る。閉口そうになるもののうまく単語に出来ない言葉を、口ごもりながら続けて言葉を発した。

「んで、……俺を呼んだ、……んだよ」
「はっ、」

彼の嘲笑ともとれるような笑い方に顔を勢いよく上げる。彼は手にしていた器を置いて、肩肘をつき顔を顎に乗せてこちらを値踏みするような視線で自分を見てきた。距離は木製の机を挟んでいるの近くはない。それでも、舐めるような眼差しで至近距離から囚われている、そんな眼光だった。

「何回も呼んでて、わかんねェのかよ?」

カッと顔から火を噴いたように急に熱くなり、すぐさま視線を机に落とした。
過去に呼ばれて、何をしたか自分ははっきり覚えているし、そのことを無かったことにしたいぐらい恥ずかしい出来事だった。身体を開かれて、無様な姿を晒して、あられもない声を出して。忘れたくても忘れられないその行為は、呼び出される度に彼によって幾度か行われていたので、彼が言った言葉の裏側を想像することは易々とできてしまう自分にも恥じた。

「ガキが」
「るせェ……! 元はといえば、」
「元はと言えば?」

ゆっくりと首を上げ、真正面から自分を捕まえられる。この彼の目が、自分は嫌いだった。何でも自分のことを見透かす、そんな目の光りに一瞬だけ萎縮しそうになる。もちろん本当に見抜いている訳ではないのは分かっている。それでも、彼の放つ異彩な光が自分をそうさせた。

「っ、も、いいだろっ!」
「何が」
「だから、そのっ」

言い淀んだ先の言葉が出てこない。女性経験が皆無な自分にとって、彼が言わせようとしている言葉はあまりにも羞恥心を煽り、喉につかえて出てこなくさせている。蒙恬が言ってていた「お見合い」は近いうちにあるかもしれない。ゆくゆくは子供だって作るかもしれない。それでも自分にとってその言葉はどこか遠いもののように思えて、口に出すことを憚られた。

「まー、こんなことやってても埒が明かねェし、やるか」
「は……何を?」
「何って」

彼は陶器を机に置き、椅子を静かに引いてのっそりと立ち上がる。その一つ一つが優雅に見えてしまい、目を奪われそうになるが懸命に視線をそらす。と、目の端に何かが通り過ぎ肩を掴まれたかと思うと腕を引き上げられ、無理矢理に立ち上がらせられた。
顔を上げ睨み付けようと視線を上げた途端、ぐっと彼の方に上体を引き寄せられ、彼の顔が右耳に近づく。

「交尾すんだろ」

直接的な物言いに、先ほどよりさらに耳と首までが一瞬にして赤くなった。だから嫌いなのだ。こちらを揶揄うのが楽しくて分かってやっている。一言だけ言い放ち、耳元から顔を離して今度は自分の顔の前に近づけられた。鼻先が触れそうな距離。普通の恋人ならきっと甘い時間となっていただろうが、恋人なんてそんな甚だしい関係ではない。だからこそ嫌悪しか抱けない。
眉根を寄せ、目尻を怒らせる。が、この男には睨みなんていうものは聞くはずもなく、むなしい抵抗に終わるのは自分でもよく分かっていたが、それでも形だけでもやっておかないと、沽券に関わる。
ただ、返事が出てこない。肯定してしまったらこの関係はずるずると続くだろうし、かといって否定したらこの場で組み敷かれる。どちらをとっても自分にとっては逃げ道のある突き当たりではなく、行き止まりだ。

「……」

どう答えようかと思考を巡らしていると、くくっと喉の奥から男が笑う声が聞こえてきた。
男が顔を遠ざけ、がたんと盛大な音を立てながら椅子に腰をかける。再度、手にして陶器を手に取り酒をあおり始めて、男の行動にただ呆然とみているしかなかった。

「時間はまだあんだろ。今から押っ始めんのも悪かねェが、」

噛みつこうとしたその言葉を飲み干し、男の続く半句を掌を握りしめながらひととき待つ。

「今は酒だ」

どうやら自分が顔を赤くしたことに気がよくなった様子だった。その予想が当たっているかどうかは分からないが、もしそうだとしたら無性に腹が立つ。
ただ、この場で組み敷かれなかったことには感謝するしかなかった。
この男のことが嫌いだ。嫌悪のその先にある感情を自分はまだ知らない。
分からなくて、いい。


キングダム/桓騎×信