「信の馬鹿! どうしてオレの気持ちが分かってくれないんだよ!」
軍師河了貂が声を荒らげ、天幕の外へと飛び出していった。やってしまった、と信が思った時にはとっくに河了貂は外に出てしまい、声を掛けるにも掛け辛い状況が天幕内に重い空気が立ちこめる。軍議を開始した当初は和気藹々と話し合いをしていたはずで、徐々に熱が入ってくるのもいつものことだった。ところが信がいらない一言を河了貂に言ってしまい、それが逆鱗に触れてしまい、口論となって今に至った。
後悔は先に立たない。作戦時には揉めたりも勿論するが、その場で終わる。しかし今日は更に先まで行ってしまったことを信は酷く悔やんだ。河了貂とは最も古い付き合いで、気兼ねない仲だと思っている。だが、自分の一言で怒りが爆発したのだろう。強く言う気は少しもなかったが河了貂の剣幕な様相に、こちらも負けじと意向を曲げず、率先して口げんかを買ってしまったのが非常に良くなかった。
呆然としたまま、立ち尽くす。自分のすぐ右隣に立っていた渕がオロオロしていたのは、熱くなりすぎてから目の端に嫌でも入ってきていたのにも関わらず止めなかったのは自分の回りすぎた口の所為だ。他の誰の所為でもなかった。
「えっ、えっと……、私外見てきます」
「……ああ、渕さん頼む」
我呂と岳雷、那貴は演習の手ほどきで出払っており、とどまっているのは羌瘣、渕、楚水、それから信が取り残された。申し訳なさそうにか細い声で渕が信に一言断りをいれて、河了貂を探しに行ってくれる申し出を脱力した片手をあげながら返事をする。渕の後ろ姿をぼんやりと見届けながら信は力なく椅子に掛け、肘を机について頭を手に預けて項を垂れる。こんな言い争いをするはずでは無かったのに。はあ、と大きくため息をつくとそばに人が寄ってくる気配で、ゆるゆると顔を上げる。今の自分はどのような顔をしているのだろうか。きっと情けない顔をしているだろう。そう言われても仕方が無いぐらいには力が入らない。
「……お前は、もうちょっと上に立つ者として考えろ」
「分かってっけどよ」
羌瘣がこの喧嘩にまるで関心はないという、至極いつも通りの声色で接してくる。返答を一先ず言ってみたものの、何かを食べているのだろうもぐもぐと口を動かしている音もするが今それを指摘する気力は微塵も沸いてこない。
続いて自分の左隣に立っていた楚水が、こちらも重ねて渕と同様申し訳なさそうな声を出しながら、信の胸奥を案じるかのように顔をのぞいてくる。正直なところ放っておいて欲しい心持ちの方が勝り、喉奥から出そうになった声をぐっと堪えた。
「信殿の気持ちも分かりますが、……その」
「……分かってるってば」
一人悪者扱いされて居心地も悪い。演習自体は今日で終わるが、この後天幕や櫓の撤去等の片付けが残されており、重くのし掛かる。ああなれば暫く口は利けないし、大きな侵攻作戦は暫く先ではあるものの詳細な伝達や辺境警備、交戦後の邑の復興配備等の指令が必要がある。その時にどうしても話し合いは発生するので、早く謝った方がいいのは分かっている。分かってはいるが、はいそうですかと引き下がるのも癪に障った。
はあ、ともう一度深いため息をつく。一先ず外での演習がどうなっているかを見に行ってからでも遅くない。信は椅子の足を引きずりながら、のろのろとした動きで立ち上がる。河了貂と顔を合わせるのが嫌で足取りが重く、一歩が踏み出せない。
「……早く謝ってしまえばいいものを」
「信殿は分かっておられるとはお思いですが、……」
何度もため息をつきながら歩く信の後ろで羌瘣の呆れ果てた声と楚水の先ほどと全く変わらない心配する声が聞こえたが、とやかく言う気にもなれず天幕の入り口に降ろされている布を右手で払い上げる。外と中とでは明るさが違い、まぶしさに目を一瞬だけ細めた。我呂と岳雷の怒号が飛び交う。歩兵と騎馬隊の一部がしぼられているのがすぐに分かった。顎をやや上に上げて空を見上げる。日が陰ってしまうような、曇天。日差しが出ていない分活動はしやすいが心を移しているみたいで、更に気持ちが下がっていく。こんな隊長では皆に合わせる顔がないと承知の上だがどうしても今だけは落ち込みを隠しきれない信だった。
数刻後の撤収の際、声をかけようと試みたが他の者との会話に阻まれたり、河了貂自身が他の者と話していたりと折が合わず、結局解散となり帰路へと脚を動かした。
自分から働きかければ良かったのだろうか。帰路の途中でもやもやと一人で考えた。戦場に出た時は、まだ一緒に暮らしておりいつでも喧嘩はしていた。やれご飯がまずいだの、家を汚すなだの細かい事からそれこそ今回のような売り言葉に買い言葉のような大きな喧嘩までしてしまった。しかし翌日には謝りまた元の生活に舞い戻る。それでよかったのに今は住み処が違えば立場も違う。思い出す度に肩が落ちて、いつか地に着いてしまうのではないかという錯覚に陥るぐらい信は気落ちしていた。
顔をあげると、よく見知った軍の伝者が家の前をうろうろと不審者さながら徘徊していた。装いは一見すると風貌からして物盗りにしか見えないが。れっきとした正規軍の者である。今まで落ち込んでいた信の眉根が一瞬で深く皺になり、事を把握した。気分は落ち込みを通り越し、最悪なものへと瞬く間に変わり果てる。
伝者はこちらに気がつき、馬に乗りながらこちらへと近づいてくる。今から何を言われるかもう手に取るように分かっているし、後々なにが行われるかも分かっている。勿論この伝者はなにをしているのかは無論知らないであろうし、知ってほしくはない。
周りに隊の他の者が絶対居ないか辺りを見渡し、差し当たって人が留まっていないことが確認出来たところでこちらから近づいた。用件は短く手早く済ませた方がこちらの為にもなる。
「お頭が呼んでる」
「……知ってる」
てめェが来たならそれしかないだろ、と喉から出かかったが河了貂の件が引っかかり、言葉を飲み込んだ。一言だけ告げた伝者はさっさと信を後にどこかへ行ってしまう。伝えられた「お頭」の家ではないことを願いながら、家の前で話していた信はいったん帰宅をし一息ついた。しかしこの一息は本当に一瞬で、今からは受け伝えられた通り「お頭」の元へと足を運ばねばならない。重々しい天気の中行かねばならない憂鬱をどうにか払いのけたかったが、今の自分の感情はそうはさせてくれない。腹に力を込めて意を決する。まずは行くか、と。



常に一方的に呼び出される関係になったのは黒羊丘での戦いが終わってから暫くしてからのある日だった。自分の醜態を晒す羽目になったあの日を忘れはしないし、むしろ憎しみの方が勝っているだろう。人になるべく会わないよう普段とは違う道を選び、いつも「お頭」の元へ行く道中で思い返す。苦々しい思い出は振り返る度に鮮明に思い起こされていく。信にとって知らない世界がそれほど痛烈だったことは認めざるを得ないが、それも何度も、回数を重ねる度にそしてより強固になっていくのは気のせいではないと思いたい。自分一人にそこまでの価値があるとは到底思えないが、あの「お頭」にしてはきっと壊れない玩具としか見なしていないのだろう。
ぽつり、と鼻の上に雫が落ちてくる。最初は小ぶりだったのが徐々に大きさを増し、ざあ、と言う音で一気に雨が降り出してきた。合羽なんて都合の良い道具は当然持っておらず、雨宿りするにも庇が小さく軒下に入ったところで濡れてしまうし、いつこの雨が止むか分からない。足早で歩いていた脚を駆け足に変え、呼ばれた元へ急ぐ。駆け足で行きたく無かったがこれ以上濡れそぼってしまうのは勘弁願いたいし、さっさと事を済ませたい一心もあった。それと同時に雨が肌へ打ち付けが強まる。避けられないこの雨をなんとかして凌ぐのはまず邸第へ行く事が最優先だ。
暫く走ると、呼び出した「お頭」の邸第が見えてくる。郊外に位置する、他とは比べものにならない大きい屋敷は、本邸では無く別邸らしい。本邸はなおなお巨大らしく、将軍になるとやはり甚大な屋敷に住めるのかとむしろ夢への実現だと一瞬だけ目を輝かせた事があった。本当に一瞬で直ぐさま快楽の波に飲まれたが。夢を見させる時間さえ与えてくれない「お頭」は信にとって相対する思想の持ち主で、そんなあの男がどうして自分をこのように何度も招集しているかは信には皆目見当がつかない。上官に呼ばれたから行く、そこに感情は乗っていないと思ってはいるつもりだが、実際は自分でもよく分からない感情が渦巻いている。今それをどうこうしようと考えてはいないが、いつか蹴りをつけなければならないとは感じてはいた。
時々水たまりを踏みそうになったり皮の靴が滑りそうになったりしながら、そうこう思い悩んでいる内に「お頭」の邸第につく。漆喰の白壁と丸瓦で出来ている敷地の囲いはいつ見ても権力者の象徴だった。自分だっていつか、と思い立ち止まり壁に触れてみる。今日は雨に濡れていまいち触り心地が分からなかったが、それは確かに自分が手に入れたい一つではある。その実感をまさしく形づけるよう胸に刻んで、敷地に踏み込んだ。
中庭が広く取られ、平屋の邸第は少し奥まった所にある。この酷い雨で水が浮いている石畳を滑らないように走り、玄関となっている堂へ足を踏み入れる。ざり、という音が囲まれた壁に反響して、耳へと響く。晴れの時は大抵外で飲酒している彼は初めての雨の日で、外には当然姿は見えなかったが中で飲んでいるのだろうか。中の様子を窺えないので水を含んで大変なことになっているいったん靴を脱ごうと顔を下げてかかとに指を入れる。
「随分遅かったじゃねェか」
声が突如降ってきたことに驚き、思わず大きく肩を跳ねさせる。突然、気配も足音も無く近づいてきたここの邸第の主に、顔は上げず片方靴を脱いだ。
「遅くなってねェだろ、――桓騎」
演習が終わってその足で来たのだから、むしろ褒めて欲しいぐらいだがこの男――桓騎はそんな優しい言葉は絶対と言い切れるほど掛けてはこない。もう片方の革靴の踵に指を入れ、脱ごうとするが上手く力が入らない。玄関先で声を聞くとは思わなかったのが動揺として出てしまう。信は心中で舌打ちをしなつつ半ば強引に引っ張りながら靴を足から剥ぐ。足の甲まで濡れてしまい、帰るまでに乾いてくれるといいのだが、今なお降り続けている雨がいつ止むかは分からない。おかげで普段は乾燥している空気も、湿度が高いお陰で乾くものも乾かないのではと脳裏で一瞬不安が過った。
「濡れ鼠だな」
「るせェよ」
「湯浴みしてこい」
ようやく顔を上げ、桓騎の表情を見ようとしたが替えと思われる麻靴を放られ、無く慌てて受け取る。身をすぐに翻されたので結局この場では表情を確かめることなく、自分が今どんな酷い顔をしているかを見定められずにむしろ良かったのでは、と信は少しばかり胸をなで下ろした。
全身ずぶ濡れになっているのは紛れもない事実なので、遠慮無く浴室へと向かう。幾度も訪れている邸第の浴室の場所はよく知っている。
平常なら食事、入浴の順でその後決まって交接をするが、こんな雨に打たれた状態で行うのも確かにどうかと思った。いや、あの桓騎は何かの折にそういった戯れを実行するかもしれない。身の毛がよだつ想像を思い浮かべてしまったが、頭を振ってかき消し浴場へと足を運んだ。
邸第はそこそこ広い。とはいえ秦王政が居住まう王宮に比較するとこぢんまりと為しているのは確かだが、自分の家と比べたらそれはもう広々としている。今歩いている廊下だって有るわけでは無い。よく知り得ない柱の飾りも当然無い。将軍になると、内装の至る所まで飾り立てられるのは分かっているが実感がいまいち湧かないのもまた現実だった。
邸第の内装を見回している内に浴室につく。雨が降られたので多少肌寒い。戸を開けると、室の角に置かれている炉で暖められているのか、丁度良い室温に調節されており、ようやく落ち着いて一息つけた。青銅製の炉は浴場に鏤められており、冷えずにすむようになっている。以前雨ではなく、外気がもう少し肌寒い日に訪れた時にこの暖かさにこの上なく驚いたことを覚えている。それ以来、徐々にではあるがここでは好んで入浴をするようになった。
身体にまとわりつく服を脱ぎ、濡れた服を軽く絞って麻で編まれた籠に入れた。肌は未だ冷たいので全裸になると多少冷えたが、早く湯船に入ろうといそいそ足を進める。
煉瓦が敷き詰められている浴室は大人が三人ほど入り込んでもまだ広いと思われる浴槽が一段下に掘り下げられており、湯が漏れないよう木枠で固められている。これだけ幅広いと娼婦とも風呂でもするのだろうか、と下世話なことを一瞬思い浮かべてしまったが、頭を振り払い屈んで湯温を確認する。熱くも無く寒くも無く心地よい温度が指先から伝わる。脚をつけ、そのまましゃがみこむように湯へと滑り込んだ。
「はー、あったけ……」
外で湧いている掛け流しの天然の湯も好きだが、構えられている浴槽もまた好きだ。開放感を重視されているのか大きく取られた窓があるが、今日はあいにくの天気で木材で作られた雨戸が嵌められていた。恐らくここから庭園が見られるのだろう。そんな趣味があの男にも持ち合わせているのだろうか、とも考えたが今はこの温かさを堪能しておこうと思えた。
湯には何かしらの花なのか、木の枝なのかが浮かべられている。香り付けされておりその香りがより一層心地よさを引き立て、花の香りはよく分からないが気持ちを落ち着かせてくれるような気がした。
湯に映った自分の揺らめく顔を見ながら、河了貂との口論を顧みる。強く言いすぎたとは思っているが、しかし。捻った返しが出来ない自分がどう言えばいいのか、やはり言葉の返しに困ってしまう。関係が悪いまま、とはいかないとはさすがに信じているがそれでも以前のようには戻らないのだろうか。
天候と相まって、感情がどうしても上手く定まらない。一暴れしたい気分になるが、この状態だと暫く出来そうになかった。
「おい」
「は?」
「いつまで入ってんだ、下僕」
湯船と一緒に思考に揺られていると、頭上から声が降ってきた。顎を上げ上体を僅かに反らしみると、邸第の主が全裸になって腕組みしながらこちらを見下ろしている。突然の出来事に、つい信が立ち上がると湯が煉瓦に溢れ流れ出した。
「い、いつって、さっき入ったばっかで」
「だから遅ェって言ってんだろうが」
桓騎からは怒りこそ感じ取れなかったが、待てなかったのは事実だろう。黒い瞳がこちらをじっと見ているが、そこから感情は読み取れない。
「ふざけんなよ。誰がてめェなんかと風呂に」
「屋敷の主は俺だろーが。俺がどうしようと勝手だろ」
至極正論を言われてしまい、ぐっと押し黙ってしまう。間違いなくその通りで、いつ入ろうがどの折りで入ろうが問題ない。これだけの広さがあるのだから、会話だってしなくても良いはずだ。信はこれ以上の反論は出来なくなり、立ち上がった身体をのそのそと湯船へと戻ること選択した。桓騎は自分の隣にさも当然のように湯船に入り、目一杯張られていた湯が溢れ出す。見せつけられた質量の違いに、眉を顰めた。
いざ隣に来られても何を話して良いか分からない。平時もほぼ飲んでから交接するだけの仲なので会話という会話はほとんど無かった。根っから全てが違い過ぎて話せない、と言ったほうが近いかもしれない。桓騎も沈黙が気になる性分ではないらしく、取り立てて会話を振ってくることもなければ、こちらへ会話を促すこともしなかった。
しばらくの間沈黙が流れ続けたが、いい加減何も話さずいるこの時間がが我慢比べに思え、信が絶えかね湯船から立ち上がったその時、隣で黙していた桓騎が突如として手首を掴んできた。何事かと思い、自分の握られた手首に顔を向ける。
「縁に手、突け」
「あ? ……ちょっと待て、ここで」
桓騎から発せられた言葉の意味を僅かの間に思索した。手を掴んで手を突けとはこれ如何に、と謎かけのようにも思えたがこの場でそういった冗談を口にするような男では無いことを散々知らされている。となると、考えられる物事はただ一つ。
これから行われる行為への制止の言葉を上げようとしたが、時既に遅し。握られた手首を使い信は身体ごと反転させられあっという間に命じられた格好の通り、浴槽の木枠の縁に手を突く形となり、あっさりと桓騎に背を見せるはめとなった。寝台とは違い、縁に立ち上がりが無いため指か掛かりにくく力が入りにくい。捕まっていないとやり過ごせないあの強烈過ぎる快感に耐えられるだろうか。不安に駆られたが、そんな事を気にしてくれる様子は無く、桓騎が自分の脇腹へ手を這わす。粗暴に掴まれた手首の力とは打って変わり、身体だけを純粋に悦ばせるような丁寧な手つきで脇腹から胸の横へと摩り上げられ、慣らされた身体には僅かな刺激だけで快感を拾い上げてしまう。行為の時だけ、とりわけ優しく扱われるのが嫌いだった。痛くされた方が交接も、触ってくるこの男ももっと嫌悪出来るのに、それをさせない算段で恐らく触れてきているであろうこの計算高さが本当に嫌になる。嫌いになれない自分も嫌だった。
手は胸に伸び、乳頭に手のひらが擦れる。
「っ……、」
まだ完全に起ち上がっていない先を、丹念に円を描くように撫で続ける。両方の突起が徐々に硬くなってくるのが分かる。下唇の内側を噛み吐息が漏れないよう我慢をするが、時折桓騎の掌のもどかしい動きにもう少し強く潰して欲しいという願望が生まれてしまい、空気を吸って声を出さないよう喘ぐ。やわやわとした半端な刺激でも、陰茎は芯を持ち始めその先の扇動を今か今かと待ち構えていた。
「ふぅ……んッ、んぅ……」
「腰揺れてんぞ」
はは、と乾いた笑いが背後から聞こえてくる。その嘲笑にかっと身体が瞬時に沸騰するように熱くなる。そうさせているのはどっちだ、と肩越しから片目で睨んでやったが、待ち望んでいた桓騎の指が乳頭へ絡み、親指と中指で緩く摘ままれる。では人差し指と言えば突起の先を器用に爪先でかりかりと弾かれ、二つの刺激が一気に信の身体を支配する。脳天に響く甘味に射られ、身体はより一層悦楽を求め信は無意識に腰を揺らした。
ふと半勃ちになった桓騎の性器の熱を裏股から感じ取る。時々認識させるかのようにごりごりと強く押しつけられ相も変わらず元気だな、という見当違いも甚だしい感想を信は抱いた。
乳首への刺激をひとまず止め、桓騎の手はそろそろと再び脇腹に戻ってくる。片手は腰に、もう片手は更に下がり内ももを丁寧に撫で回す。男の股を触って何が楽しいのかは分からない。性器に届きそうで届かない手の距離に歯がゆさを感じる。恐らく信の本来の性分もあるのか焦らされるのは苦手だった。直接握りこまれないその手つきに、自分の手を添わせ陰茎へと導いてやりたい衝動に駆られる。勿論そんなことをしてしまえばせせら笑われて、今後の交接でことあるごとに揶揄われそうなので、絶対に行わないが。
「クソ、っ……」
「んだよ、触って欲しいのか」
「違ェ、しッ……んっ、」
喉の奥で桓騎が一笑するのが聞こえると、内ももに這わされていた指がそろりと睾丸に手を伸ばされる。普段触れないその場所へと侵され、思わず腰が引けそうになる。痛みは伴っていないが、自分が自慰を営むときでも使わないので、桓騎が何を致すか分からず身体をつい身構えてしまうが、当の桓騎は気にも止めない様子で柔らかく揉みしだかれる。
「てめ、どこ、ッ……触って、っ」
「あ? 触って欲しそうにしてただろーがよ」
「ちが、」
口からそこではない、と思いがけず飛び出そうになったが慌ててその言葉を引っ込めた。まどろっこしい、直接の刺激が欲しい。もっと、と身体がそう囃しているのは分かっているが、心が正直になることを許してくれなかった。この男に弱みを握られるようなもので、お願いしますという言葉を発するのはどうしても沽券に関わる。信は唇を噛みしめ、桓騎に抗議の声を上げるのをやめさせたいようにさせる他ない、と退路を断った。
気持ちいいとも良くないともとれない妙な感覚は暫く続き、睾丸から絡められていた指がようやく手を離させる。ほっと一安心したのも束の間、その指がすぐに陰茎に絡み何の前触れも無く裏筋に指を匍わされた。いよいよ欲しかった快楽はあまりにも鮮烈過ぎて、吐精してしまいそうになったが、無理矢理押さえ込み耐え忍ぶ。桓騎の指の一挙一動に踊らされているみたいで、それはまた敗北感にも似ていた。
「あッ、! んッ、……はっ、……んんッッ」
指はそのまま裏筋から先まで何回も往復され緩やかに握りこまれると親指の先で鈴口を刺激し先走りを強制的に出させそれを潤滑油として使い、陰茎を扱かれる。既に溢れていた蜜が桓騎の手のひらを緩く滑らせる。湯が揺れる音と共に擦り上げるたびににちゃにちゃといやらしい水音が耳に入り、また煉瓦で囲まれている浴室に反響させる。余計に信の羞恥心を掻き立て、耳を塞ぎたくなるが上体を崩すことになるのでそれも当然出来ない。
ほぼ同時に窄まりの襞を丁寧に数えるかのように指が触れられている事に気がつく。あ、と信が思った瞬間に親指の先が後孔へと入ろうとしてくる。浅く何回も入り口を弄ばれ、次への期待から後孔が無意識に奥へ招き入れようとぱくぱくと口を開く。慣らしていない秘所へ誘い込むが、指が外されその代わり陰茎に触れていた指がはずされ、自分の先走りがべっとりとついた人差し指を難なく飲み込んでいく。
「中、嬉しそうにしてんぞ」
「嬉しくっ……っあ、なんか、っ! ねェッ……、ん、んぅ、っ」
内壁が歓迎するかのように桓騎の指をぐいぐいと飲み込んでいく。中の熱さを確かめるように指の腹でその感触を楽しみ、ゆっくりと指を引いてそれから奥へと突き進む。徐々に指の動きが速まり、また奥への侵入の許しを請うかのように開いていく。許されたそこへ次は中指をたやすく飲み下した。人差し指の時とは違い増やされた質量に違和を感じ取るが、それよりもある一点への責めを外してくる桓騎の指の腹に、もどかしささえ感じる。指の関節を折り、指の腹で前立腺を僅かに避け内壁を擦る。自然と腰が揺れ動き、早くそれが欲しいと身体が催促をするが桓騎はいつまでも触ってくれそうにない。どうしても、自分の口から言わせたいらしい。
「っ……桓騎ッ……」
「あ?」
「も、っ……中ァ、ッ……早く、」
通常なら絶対に呼ばない名前も、嫌というほど焦らされどうしても呼んでしまう。二人だけで完結しているこの邸第での呼び出しは名を呼び交わさなくても、ある程度は通じてしまうので問題無かったが、今は違う。どうしてもそこを掠めて欲しい。内への渇望がより強く、名前を言うしか他無かった。
最奥を開こうと解していた指を抜かれ、圧迫感が減り息が漏れる。安堵出来たのはごく短く、直ぐさま指とは比べものにならない質量が、信の後孔の肉を押し開く。あ、と声を出そうと口を開けると、快楽が脊椎から脳天まで一気に駆け上り、吐精してしまった。
「えっ、あっ……?」
「挿入ただけでイったのかよ、淫乱」
「ッ……! ちが、」
「何も違ってねェだろ」
そう、何も間違っていない。挿入され、前立腺を桓騎の凶悪とも判断できる男根で掠められ、達してしまったのだから、文句を言えない。違う、と口では打ち消したかったが証拠が既に湯へと白く濁った精がゆらゆらと糸となって揺らめいているのが目の端で捉えられた。こんな形で汚れてもいいのだろうか、と桓騎に尋ねたかったが、唇から出てくる声は意味の無い母音しか出せなかった。
「っあ、……ぅ、んっ……く、んんッ、……!あっ、桓ッ、」
桓騎の腰が容赦無く信の臀部へ打ち付ける音が浴室内に響き渡る。桓騎の男根が肉壁をわざわざ念入りになぞるように腰を引き最奥を穿つ。その度に声を抑えようとしても自然と上がってしまい、自分を煽っていく。吐息が漏れ、奥へぐちゅりと呑み込む毎に瞼の裏がかちかちと光る。
「ッ、……声っ」
「……あァ?」
「声っ、……響く、ッの……んんっ、やだッ……!」
必死になって絞り出せた拒絶がこの言葉だった。普段とは違い一回り大きい部屋で、また水音が余計気持ちを落ち着かなくさせている。どうしても声を上げたくなく、振り向くこと無く信は懇願してみた。降りたくっていた腰の動きが急に和やかなものへと変わった。亀頭が入り口の際まで来る。それからゆっくりと腸壁の奥までかき分けて進ませるその優しすぎる拷問に耐えつつ、桓騎の答えを待つ。何かを思案しているのあろう、男の顔は勿論見えない。
不意に首筋に湿った感触が広がる。少量ながらも普段一つに結んでいる髪止めを外された事が分かった。雨で濡れたままの後ろ髪は力なくへたり込む。ならば桓騎の手にされたのだろう髪止めはどこにいくのだろうか。
「咥えてろ」
解かれた髪止めをそのまま口まで持ってくると、半ば無理矢理口に入れようとする。顔か見えないためどの辺りが唇か分からないのか、分かっていて顔に押しつけているのか、またはそのどちらもか。桓騎ならどちらも有り得る、と思いつつ唇を突き出して髪止めを咥えた。
落としてしまえばこの広い浴槽でどこにあるか定かではなくなり、髪止めを変えることとなる。そうすると隊の者達にどうしたと理由を必ず聞かれるだろう。自分は嘘がつけない性分なので答えるにもどう答えていいか見当がつかない。そうなることは絶対に避けたかった。
「んぅ……んんっ……ン、っ……! んんぅ……!」
腰の奥が快感に痺れる。髪止めを咥えさせられ、ゆっくりとした動きだった腰がまた早まっていく。桓騎の呼吸が時々乱れ、そろそろ限界に近づいている事を知らされる。自分の脇腹を痛いぐらいに掴まれ、奥に印を残そうとしている本能をむき出しているその激しい動きに、自分も高められていた。性器は追い詰められて充血し今か今かと待ち構えている。桓騎がいよいよ腰を勢いよく引き、一際強く内壁を押しのけ最深部まで到達する。
「んん――ッ、……っ!!」
景色が白くなっていくのが分かり、中をきつく締め付け内腿が震えたかと思えば内にどろりとした欲を感じた。それと同時に自分も頂を目指して駆け昇りそして果てた。最後まで虚勢を張っていた腕が振るえ、肘を縁へつく。脱力と同時に中に埋まっていた桓騎の陰茎がずるりと抜ける感覚に、また甘い快楽をかき集めそうになったが理性を総動員させて拾うことを阻止した。膝が笑い、湯船に落ちそうになる。桓騎の手が眼前に来るやいなや、かろうじて咥えていた髪紐を唇から外され桓騎の手中に収められるのを疲労で崩れそうになる瞼を押さえつけながら目視した。
それからいつになく身体が熱い。桓騎に開かれたからだろうか。理由は分からなかったが、なんとか体勢を立て直そうとするが上手く力が入らない。
このままだと縁に顔を打つけると目を閉じた時、自分の上体に腕が差し込まれすんでの所で鼻をぶつけずに済んだ。
「ダセェな、クソ下僕。行くぞ」
脇に抱えられ湯船から引っ張り上げられる。決して軽くは無い自分の身体を軽々と持ち上げようとするその筋力と、吐精したはずの疲れはどこにいったのか。疲労感から口にしようにも気怠さと身体の熱さが勝ってしまい、されるがままにずるずると引きずられていく。濡れた身体を拭かずお互い真っ裸で片や自分は抱えられ、片や全裸邸内を歩くのはいかがなものかとも思う。人の気配もしないのでもういいか、と半ば諦めの気持ちで桓騎に身体を委ねることしか出来なかった。
いつも交接に使う室に着くなり、硬い寝床へ放り投げられる。ここまで運んできてやったことを有り難く思えと言わんばかりの態度に、文句の一つでも発してやろうかと思い起こしたが言葉は出てこず、仰向けになり大きく一息ついただけだった。
少しずつだが身体が冷めていく。文句よりはあのまま溺れさせなかった事実を本来は感謝しなければいけないのに、桓騎の顔を見るとまず否む言葉しか思い浮かばなかった。肌に触れている上質な麻の褥が肌を滑り、心地よい。窓に近いこの寝床から未だに雨が地面を叩いている音が聞こえる。止むのはいつだろうか。
雨音がきこえていたおかげで浴場で行っていた時には気にならなかった事が、急に気掛かりになる。信は自室に戻ろうとしていた桓騎に声を掛けた。
「……河了貂と、喧嘩して」
「……お前んところの女か」
「軍師だ馬鹿」
女ではあるが、その前に自分の隊の大事な軍師だ。信は訂正をいれて、桓騎に背を向けながらとつとつと話し始めた。
「で? そいつがどうしたって」
「……だから、喧嘩して」
桓騎に言ったところでどうにもならない事は知っている。その前にこの男が話を伺ってくれるような身性ではないことは判っていた。しかし、なんとか言葉にしないといけないと思い聞いていようがいまいが、信は話を続ける。
「俺が、先頭突っ走ればいいし、それで皆ついてくるだろ。でもそれをテンは良しとしなくって、ぶつかってよ」
「お前、向こう見ずだからな」
今呼び立てられている大きな理由に反逆行為への借りがある。特にそのことに関して恨みを持っているわけではなく、あくまでも脅迫の材料でしかないことも知っていた。こればかりは強く出られず、ずるずるとこうして呼び出されてはこの男の邸第に来る羽目となっている。黒羊丘での戦いで首を捕った勢いを、恐らく言われているのだろうと信は思ったが実際は分からない。一言言い返さないと気が済まず、わざと邪険な物言いで返した。
「るせー。昔はさ、すぐ謝ってごめんで済んだけど、今は別々の立場ってもんがあるから、謝り辛くって」
「めんどくせェってことか」
「ちが、……そういうんじゃねェと思う、多分」
自分から謝るのが面倒、ということを桓騎に指摘され口ごもる。確かにそうかもしれない。以前なら非が有ろうが無かろうがさっさと謝ってしまい次、と移れたが今はどうだろうか。もしかしたら隊の長になることによって、そういった謙虚な気持ちが徐々に無くなってしまったのかもしれない。信は視線を少し落とし口を尖らせて自分を省みる。喧嘩した時の言い方は悪く、河了貂に対してのその後の対応も決して良いものではなかった。あの場で直ぐ謝っていればきっと味方とは言え、自分が悪感情を持っている男に相談なんてしなかっただろう。
「ま、俺に話したところで、解決になんねーと思うがな」
それはそうだ。胸奥で桓騎の言葉に同意した。ここでうじうじ言ったところで何も始まらない。そろそろ日が暮れる。雨脚は今なお強いが、自分の気持ちを吐露することにより前向きになれた気がする。皮肉にもこの男が自分の感情への反応を示したお陰だった。腹は立つが、感謝しなければならない。
壁に向けていた身体を桓騎の方へ向こうとした肩を寝台に落とし上体を変えようと瞬間、桓騎の引きずり込まれそうな黒目と相まみえる。
「楽しむことは出来んだろ?」
「……何が楽しむだ」
桓騎が何を取りなそうとしているか判ってしまった自分に辟易し、せめてもの悪あがきで眉間に皺を寄せ、近づいてくる顔に瞼を閉じる。こうして面と向かって口付けされるのは、何回目だったかと脳裏で全く違うことを考えながら、胸に匍わされている手からの享楽を拾い自分もせいぜい楽しむことに専念した。帰るまでの時間はまだまだ長い。

目を覚ましたのは日が昇ろうとしている明け方だった。何度も見ている装飾を施された天井が目に飛び込んでくる。
あれから三回行うはめとなった。這わされた手に翻弄され、突起は赤く充血し吸われる度に声が上がってしまい、その度に嘲笑された。そうしたのはお前だ、と減らず口を叩けば特に同意も否定もすることなく行為は続けられ、起ち上がった陰茎に手淫を施される。
普段とは違う抱き方に、戸惑いが隠せず挿入された後の記憶は朧気で、最後に自分が何を口走っていたか思い出せないほど熱に浮かされていた。内壁が赤く爛れてしまい、最後には後孔が性器だと思えるぐらいには求めてしまった気がする。この邸第に来るといつも最後に抱かれた記憶があやふやになってしまうのが好きでは無かったが、仕方ない事にしておく。
あれだけ汗をかいたのにも関わらず身が清められているのは、嬉しかった。当然、清潔にしてくれたのは邸第に使えている者だろう。あの男は事後の処理を行うような相手ではなかった。
信は腰に掛けられていた肌掛けを剥ぎ取って上半身を起こすと、寝床の縁に脚をかけ革靴を履こうとした。服は、と辺りを見渡すと木製の机の上に畳まれておかれている。その上に、浴場で外された髪止めも上に添えられている事に気がついた。
髪止めと服を一緒に手に取り、ふと漂ってくる香りが鼻をつく。どこからだろうと犬のように鼻を何回かひくひくとさせて正体を探ってみたが、周りではないらしい。そうなると、手にしている服と髪止めなのは明らかだった。
髪止めは良いとしても服に香りがつくと、この邸第と何をしているかを思い起こされてしまうではないか。不満げに眉をひそめながら髪止めを机上に置き、服を広げ切りっぱなしになっている肩の袖口に腕を通す。襟元をもう一度改めて匂いを嗅いでみるが、あまり香ってこない。続けて帯で服を止め、下履きを身につける。先ほど置いた髪止めを手にすると、この髪紐から甘い香りが強く匂ってきた。紛れもなく、あの男と同じ匂いだ。
口に咥えて少量しかない後ろ髪を束ねる。片手で押さえながら口にしていた髪止めを空いている片手で手にし、くるりと巻き付ける。結ぶ作業はどうにも苦手で、下手ながらも結び目を作った。寝台の下に置かれていた。革靴は別所で脱いだ事を思い出し、裸足のまま玄関となっている堂へと脚を運んだ。
来たときには濡れていた革靴は乾いており、あの気持ち悪い感触を体感しなくていいと思えば気が楽になった。香を焚きしめた時に恐らく同じような場所で干されたのだろう。昨日の今日で、中までしっかり乾いているのはさすがに舌を巻いた。
片足を掃いているときに、ふと背後に人の気配を感じた。振り返らずとも、誰かは知っている。
見送りなんて普段ならしない癖に、珍しい事もあるものだと信は思った。もしかしたら昨日の大雨を降らせたのはこの行動があったからかもしれないと、ありもしない想像を働かせながらもう片方の革靴に脚を入れ、踵を引っ張りつま先まで足先を滑らせる。
「……、また呼ぶ」
桓騎の聞かせる気がない独り言のような物言いに、振り向けなかった。呼んで欲しいわけなどないのに、どうしてそう何度も呼ぶのかはやはり今回でも理由は見えなかった。呼び出されたらこちらが断れない事を知りきっているのに。信はどう答えて良いか分からず、表情を曇らせる。堂から出ようとつま先を蹴り出だす。
「クソ下僕」
呼び止められるとは思ってもおらず、咄嗟に上体を桓騎に向けて見返ってしまった。振り返った信に腕組みをしながら壁にもたれ掛かりながら満足そうに広角を僅かに上げて笑う桓騎の顔を一瞥し、間をおかず顔を背けようとしたがそれよりも早く桓騎が口を開いた。
「自分から動かねェと、伝わるもんも伝わんねーぞ」
「……余計な世話だ、バーカ」
激励ともとれる言葉をあの桓騎から聞くとは考えられず、瞠目しかけたがその前に自分の名前で呼ばれていないことに今更気がつき、憎まれ口を叩きながら堂から出た。そろそろ濃い空色が赤く染まった空に成り代わり、時期に空が白んでくる。今日は用事でテンと顔を合わせなくてはいけない。約束に間に合うよう信は早足で庭を駆け抜け、別れの言葉を勿論告げず邸第を後にした。



「あ、来ましたよ。信殿ー!」
渕が信に大きく手を振られる。既に集まっている仲間達へ一番後に来た信は手を振りながら駆け寄っていく。その輪の中に当然河了貂もおり、少し話から離れたところで羌瘣と楽しそうに会話を弾ませているようだった。渕の所で立ち止まり、河了貂の様子を横目で伺う。まだ到着したことにも気がついていないようで、逆に意識をされないで済んでいる事に胸を撫で下ろした。手のひらにぐっと力をいれ、河了貂の元へと一歩、一歩と足を踏みしめる。
先日の出来事で信が軋んだ車のようにぎこちない動きで歩いて理由を知っている楚水と渕は何も言わず隊長である信を見守り、岳雷と我呂、那貴は首を傾げながら様子を窺っている。
大丈夫、自分なら出来る。自分を信じている。その最後の一押しを奇しくもあの面憎いあの男の一言で突き動かされたなどと、死んでも口にしない。お礼だって絶対にしない。
胸中はどうであれ、信は河了貂の前に立ちはだかる。羌瘣と河了貂に見上げられ、一度大きく息を吐いて、それから気持ちを言葉に乗せた。
「テン、あのさ」