※名有りモブが出てきます
※モブとの恋愛はそれぞれなし
※桓騎は出てきません



勇を指導している男から声がかかった。夜明けが近く、勇は眠っていた身体を無理やり起こし、目を擦りながら客人が今居るという室へと向かう。久々に面と向かって顔を合わせる客人は、また手酷く抱かれているのであろう。前回は見ているこちらが痛々しく思うぐらい、交情とは何かと考えるぐらいには凄惨極まりない姿だった。恐らく今回もか。勇はまだ意識がはっきりとしない頭で前回世話した時の状況を思い出しながら、石畳の廊下を歩く。中庭の空を見るとまだ星は出ているものの、夜半よりかは幾分色が薄くなっている。
室の前にたどり着き、扉の前で名前を言うと奥から返事がした。勇は戸に手をかけ引くと寝台に腰をかけながら襤褸布同然の衣服に腕を通していた。
「おっ、よっス」
「信殿」
前回よりは臭いは濃くない。客人――信の顔も幾分か明るくみえるが、もしかしたら自分で全部後処理をした後だったので、恥ずかしいところを見られなくて済むという一種の安堵もあるかもしれなかった。勇は拝礼し、信の傍まで近づく。若干広めに作られている寝台は数人胡座をかき頭をつきあわせても平気なほど頑丈に作られているらしい。
その場で軽く頭を下げたまま話は進む。
「何か困りごとがあれば俺に伝えて下さい」
「あんまねェけど……そーだな、隣に来てくれるか?」
使いが隣に座るなど、あってはならないことだ。しかし客人に促されてしまい遠慮することもできず、勇は深く頭を下げ、それから小上がりを登りおずおずと寝台に腰を浅くかけた。信はそんな勇に満足したのか笑顔をこちらに向ける。笑うといくらか幼く見えるこの将校は、下男の勇にも平等に接してくれる数少ない人物だった。
「普通はこうだよな。アノヤロォ、まじで何考えてるかわかんねェ」
アノヤロォ、と出てきた相手は恐らくこの屋敷の主――桓騎のことだろうと勇は検討をつける。独り言のように呟かれた信の言葉に耳を傾け、聞き漏らさないよう黙って聞いていた。
「いつも俺を呼んでよ、その……だっ、抱いて、とっととどっかに行っちまうんだぜ。その代わり俺が出てく時には必ず起きてるしよ」
耳を疑った。必ず起きてる、というその言葉に勇は目を丸くする。思わず顔を上げ信をみたが、こちらの表情に気がつく事無く、進められていく。
「俺だって調練やら馬の様子だって見に行かなくちゃいけねェのに、事あるごとに呼ぶし。来ないと平気で仲間を人質に取るからたち悪い」
主の気に食わない性分を言い並べ、言葉は続けられる。
「勇はあいつ、いやじゃねェの?」
不意に話を振られて、思わず肩を跳ね上げさせた。疑問はひとまず置いておき、信からの問いにまず答えなければならない。
「俺……は、信殿と同じで下僕の出でして、主様に運よく拾ってもらったので嫌という気持ちは出てこないです」
勇は自分の気持ちを素直に話した。言った通り、拾われた身ではあるものの、時折主の従者や下女が消え不信に思わないわけでは無いが、平時は特に関わりがないので暮らしていく分には問題がなかった。他の将や豪族に仕えてみたいという欲も勇には持ち合わせていない。
「そっか」
「あの、信殿」
話題がそこで途切れそうになった折、勇は控えめに信の名前を呼んで見ると信は不思議そうに小さく首を傾げた。
「どした?」
「主様は信殿のこと、その、……嫌ってないかと思います」
「は?」
信が信じられないものを見るかのように、口をあんぐり開け勇の顔を凝視する。あまりの間抜け面に吹き出しそうになったが、勇は顔を引き締め床一点を見つめながら、訥々と喋り出した。
「先ほど、信殿が屋敷を後にする際に主様が見送りに来ると言いましたよね?」
「あれ、見送りか? ただ俺の顔を面白がって見にきて嫌み言いにきてんだろ」
「俺が知る限り、他の方にはしておられていない……と思います。多分」
信はどうやらこの邸第から帰ろうとする時のことを思い返しているらしく、思い出しては頭を捻っている。信にとって好んでいない言葉をかけられ、顔を見に来られているだけだと信じているらしいが、恐らく違うと勇は感じ取っていた。まだ他にも要因があるからだった。それを述べたところで隣に座っている男に信じてもらえるかはまた別の話ではある。
「んなことねェだろ。あの桓騎だぞ? 嫌み言われてじゃーなってされてんのぜってー俺だけじゃねェって」
「それと……」
勇は一瞬言おうか言わまいか迷う。しかし、股に置いてあった手を握りしめ、意を決しながら視線を床から上げ息を吸い込んだ。
「信殿が帰った日は機嫌が良いのです」
「機嫌てあいつの?」
「はい。あくまでも俺が感じ取ってるだけかもしれないですが」
主との接触は少ない。屋敷に居ても広すぎる為、指導に当たっている男ほど顔を合わせることはなかった。それでも時々主が廊下で横を通り過ぎたり、庭で酒を呷っている姿は見る。
機嫌が良いと感じたのは、何回目かの帰った日に庭で酒を口にしている時に横顔を見る機会があったからだ。普段は人を寄せ付けない雰囲気を醸し出しており、ここに勇が来てからもその気配を常に身にまとっているのだが、あの時はそれが押さえられていた。後から分かったが信が帰ったあと一人で酌をするから人をつけるな、と言っていたらしい。普段は下女や下男を数人つけさせながら酒を飲んでいるので、いつもと雰囲気が違うのは明らかだった。
それが二回、三回と見るようになれば明らかに信がそうさせているとしか勇は思えなかった。
「その話、本当かよ」
「……主様に直接聞いた訳ではないので、俺の主観でしかないです。でも信殿が去ったあとの出来事なのでそうとしか思えず」
勇は一通り自分の感じていたことを信に全て述べたが、その信は言われた主観に懐疑的らしく、首を捻りながら信じていない様子だった。
それはそうだ。確証は無く、あくまでも個人の意見でしかない。恐らく他の使い達もあまり気にしていないようで、その話を仲の良い下女の桐にぽろりとこぼしたら、彼女ももちろん知るはずがなく、不自然すぎではと言われて終わってしまった。
「たまたま俺と会った後に、きっと予定があったんじゃねーの? それで機嫌が良かったとかさ」
「偶々……」
「じゃなかったら、口直しにいい女抱いてたんだってきっと。あいつ性欲強ェし」
その可能性は否めない。主は屋敷にいれば女を引き連れて歩き周り、気が向けば居室ではなく裏庭や廊下でも致すことがあった。その様子は勇は見たことがないが他の下男たちがよく噂をしているのは耳にする。
「そうかもしれませんが……」
「だって桓騎だろ? 嫌ってんのに呼び出すってことは暇してっから遊んでんだろ」
「信殿のことを、です?」
「そーいうこと」
本当にそうだろうか。勇の目には信に会えたという喜びがそこには入り混じっている気がしてならないが、主は答えてはくれない。信に伝えてみたがやはり伝わらず、主と目の前にいる客人は恐らくこれからも混じることなく平行を辿り続けるのだと勇は感じ取る。これ以上言ったところで彼が信じてくれる確証はどこにもなく、勇は小さく肩をすくめた。
信がつり上がった力強い眼を丸くしながら勇に伝える。信からあどけなさが垣間見え、自分とあまり変わらない年の友人としか思えない表情に、勇は思わず苦笑した。
「どした?」
「いえ、信殿もこうしてると普通の人なんだなと思い」
「そりゃ、まあ」
照れくさいのか頬を軽く掻き、前を見つめていた顔を僅かに背ける。そういう等身大の人間臭さが信の魅力を更にかきたてるのだろう。彼を慕っているという見たこともない兵たちの顔が思い浮かぶ気がした。
勇は一笑してから、立ち上がり机の上に置かれている水差しを手にする。三脚になっている器に水をなみなみと注ぎ、こぼさないように信へと手渡した。喉が渇いていたらしく一気に器の底まで飲み干された。
「そうだ。今度趙と戦するんだとよ」
「信殿も」
「ああ。もちろん行く。あいつもな」
「主様もですか」
「今までの規模とは比較にならないぐらい軍の規模もでっけェらしい。俺は武功を上げる」
先ほどの照れ顔とは対照的に、戦の話に変わると途端に軍人の横顔に変わる。丸くなっていた目はいつの間にか力強くつり上がった眼へと豹変し、膝元で拳を握りしめその関節をじっと見つめていた。決意は固く、一人でも相手の国の兵士を討ち取ることを考えているのが勇でも分かった。勇は戦には行かない。行くつもりもなければ、勿論死に絶えるつもりもなかった。こうして屋敷で仕えて、日々を暮らして行ければ充分すぎるほど、毎日を過ごせる。
恐らく客人はそれを良しとしていない。如何に多く首を持ち帰れるか、そして城を制圧し捕虜を国へ献上出来るかにかかっている。聞いている分には楽しそうに聞こえるが、勇はそんなに好きではなくまた信の軍は略奪や陵辱を行っていないと聞き及んでいるからこそ、話ができた。
「……俺は戦の事は分からないですが、主様や信殿が死ぬのは嫌です」
「ありがとな」
勇の心配は恐らく信に伝わり、感謝の気持ちが込められた有り難うをもらった。しかし口先だけでしかなく、彼らは戦場へ赴くことが仕事だ。飾り窓をみるとそろそろ空が白んできた。夜明けは近い。信もいつの間にか立ちあがり、室の壁に立てかけてあった剣を背負い帰る支度をし始めている。そろそろ冬が来る。雪が積もっても主は彼を呼ぶのだろうかと、疑問が過るが口に出せない疑問は胸中へしまっておく。
「見送りますね」
「いいって。あいつにまた会いそうだし、勇も好き好んで会いたくはねェだろ」
「俺はここの下男ですから、そんなことは」
ない、とは言い切れず勇の言葉は最後まで届かなかった。必要以上に顔を合わせようとは思っていない。主は良く指導をしている男を伴い、自分たちに指示をする。声をかけられることがごくたまにあるが、召し物を持って行ったり酒を注いだりと些細な行動をするのみで後は下女たちや仕えて年期が長い者たちが担当していた。
「この屋敷も何回も来てるし、平気だ」
「信殿がそういうなら……」
勇は扉まで歩いていく信の数歩後ろをついていく。彼の死に別れた友人から貰い受けた剣の鍔には知らない国の見知らない色の石がはめ込まれている。その傷ばかりつけられている青銅の柄は使いこまれているのだとよくわかる。手入れをされ、ずっと戦場を駆け抜けてきたある一種の戦友なんだろうと、勇は感じた。
不意に信がこちらを振り向く。視線が合い勇は慌てて信へ拝礼をしたまま頭を下げている。
「顔を上げてくれ」
「は」
勇は控えめに顔を上げると、信が満面の笑みでこちらに面を向けていた。
「じゃーな。また来たら……来たかねェけど。その時はよろしく」
「……はい」
勇は信のことが嫌いではない。同年代の友人のような、そんな好意を抱いてしまっている。決して恋愛の類ではないと言い切れた。人を惹きつけてやまない将は、一介の下男までも惹きつけている。そう勇は思う他ない。股の脇に添えていた手を握りしめ、小さく返事をすることで仕事を全うする。
必ず帰って来て、とまるで娶った女のようなことは言いたくなかった。いつも主に噛みついているからこそ、戦場でも恐らく果敢に前線に出て闘うのだと予想が出来てしまうことが勇の心を苦しめさせられる。客人として、友人とは思われていないだろうが心配をする者として一言添えたかったが、そんな勇気が勇にはない。
「信殿」
「ん?」
「ご武運を」
勇は深く拝礼をすることが気持ちを精一杯伝える今の最上位の礼だと思い、信の顔を見上げず深々と頭を垂れた。目頭か熱くなる。今までこんなに人に入れ込むことがなかった勇は、誰かを失う壊さをここで初めて知った。戦場に行かず、身勝手な自分への苛立ちも含まれていた。
信は小さく返事をして扉をあけて室をを後にする。
勇はあまり気にすることなく、居室の片付けを始めた。こんな早朝にも拘わらず主がくるかもしれないと予想し、おそらくその勘は当たるのだろう。
主が見送りになどまず行かない。どんな客人でさえだ。勇がこの屋敷に来る前は主は副将だったらしく、その時の将軍が訪う時はさすがにやっていたらしい、の男から聞いてはいるが実際に話を聞くと驚きしかない。
本当に主は信を嫌っているのだろうか。勇の頭に疑問が浮かんでは消える。誰にも言い出せない懐疑心を抱きながら、静まり返った室を黙々と清掃するだけだった。