※名有りモブが出てきます
※モブとの恋愛はそれぞれなし
※桓騎は出てきません
暫く勇にとっては穏やかな日々が続いていた。あの後、信と主達はギョウという場所へ向かった旨をそれとなく聞いている。伝令が直接この屋敷に来たわけではなく、市場に頻繁に出入りしているわけでもないので下女や下男たちの噂しか勇は知らない。
勇にとっては、というのは仲良くしていた桐が子を孕み既に屋敷から出て行った。誰の子かは言わず、時折与えられたら居室にこもり何かをしているとは聞いていたが顔を会わす度に気まずい雰囲気になり、そのままかける言葉も見つからず結局最後に話したのはいつだったか思い出せないほど桐とは疎遠になってしまった。
噂好きの下女たちが言うには主に抱かれた日を境に、徐々に心がおかしくなって行ったらしい。主様の物で貫かれると人が変わってしまうなどと下世話な話で盛り上がり、桐は勿論その話から外されてしまい益々孤立していった。そのうち腹が膨らみ、屋敷からお払い箱になった、という訳だった。
勇は桐がいなくなり寂しく思う。また、屋敷に度々呼び出されしぶしぶ顔を出していた信も今は戦場で戦っている。この屋敷に来たときには何も思わなかった感情が、今では寂しさがあることに気がつき、顔には出さないものの庭を掃きながら小さくため息をついた。
土を蹴る馬蹄の音がする。一頭だけではなく、そこそこの数の馬の足音が土塀の外から鳴り響く。何事だろうと門の前に主が居ないため暇を持て余している従者たちが集まり、覗きみると先頭に青い具足に身を包んだ青年が走ってきた。
「信殿」
思わず口からもれた相手は久しく顔を見ていない、主の客人だった。しかし主は同じ戦場におり、戻ってはいない。最後尾にいた勇は従者たちをかき分けて、最前列に飛び出す。信との距離が縮まるのが確認出来ると大きく手を振りながら自分という存在を目立たせた。
「勇、そんなことする奴だったんだな」
「知らなかったわ」
背後にいた下男と下女が驚いたような声を出しながら自分の身振りを見ていた。こういった行動は普段はしない。勇は差し控えているのが常だったが、何度も言葉を交わした相手がまた来てくれているとなれば話は別だ。
「おー! よっス!」
馬上から信が破顔しながら勇に挨拶をくれた。勇は拝礼をし、信に会えた喜びを必死に隠すが口端がどうしても喜びを表したくて仕方がないらしく、頬が緩んでしまうのを感じていた。
「ご無沙汰しております」
「勇も元気だったか?」
「はい」
後ろに控えている者達は物珍しそうに会話を眺めているが、勇は気にせず口を開き続ける。
「信殿もお変わりないようでなによりです」
「変わってはねーけど、なんと苗字をもらって将軍になったんだぜ、俺」
馬から下り、同調を求めるように馬の頸を優しく叩くと馬が信にすり寄った。嘘をつけない性分の信の言っていることはおそらく本当だろう。
勇は目を見開き、それから深々と信へ拝礼をした。
「おめでとうございます。将軍」
「いーって。そういう堅苦しいのは飛信隊でもやってねェし」
聞くところによると、隊長と呼ぶ者や勇と同じように敬称として殿を付けるものが多々いるらしい。信がこの屋敷に呼び出されるようになってから本人の口から聞いている。なので改まって将軍と言われてもむずがゆさが恐らくあるのだろうと勇は思った。
信が照れ臭そうに笑いそれから今の戦況を少しだけ話す。次の進行が待っている為、このまま泊まることなく再び前線へと戻る旨を勇に伝えた。
「失礼いたします」
勇の背後から指導にあたっている男が、従者たちの間をかき分けて勇と立ち並ぶ。男は一度拝礼をし、それから言葉を発した。
「我が屋敷の主、桓騎様はいかがいたしておりますか?」
「え?っ」
信が男の言葉に思わずたじろいでいた。顔にわずかながら焦りがうまれ、表情筋が若干歪む。
同じ軍として戦っているのだから多少なりとも伝令を使って連絡等もしあうのだろうか。勇は戦場への経験が全くなく、あくまでも噂や伝えられたことしか知らず想像の上で思い描いてみたが、どんな状況か分からず勇はそこで思索をぴたりと止め、信の顔を見た。
視線を背け、ばつが悪そうにしている信はきっと屋敷の主、桓騎と何かあるのだろう。その何がを言うか言わまいか迷っている、という風に捉えられる。勇は助け舟を出すべく、隣にいる男へと顔を向け喋り出す。
「恐らく最前線で戦い、信殿とは持ち場が違うのでしょう。なかなか顔を合わせることがないのでは?」
「あっ、……ああ。あいつにあんまり会わなくてさ。ごめんな」
「いえ……」
勇がありそうな話をでっち上げ、信に振り目配せをするとそれに気がついたのか、信も慌てて首を縦にふる。恐らくもう少し頻度高く、主には会っていると勇は受け取ったが、この場では話題に出そうとは思わなかった。
「お亡くなりになったと」
「それは、絶対にねェ」
男に被さるように、信が強く今までにないほど低い声を出し否定をした。隣で肩を並べていた男は大袈裟なほど肩を跳ねさせ、その怒気にあてられては慌てて拝礼をし顔を俯けた。
勇も信がこんなにも憤りを面に出している様子を目にするのは初めてだった。主からの行為に対し、常に不服げに顔を歪めながら、それを受け入れている信にとって主とはいったいなんなのだろうかと信の引き結ばれた唇を見ながら思う。ただただ嫌いならばこの場でくたばっているかも、と冗談でも言っていただろう。しかし信の口から出てきた言葉は男の言葉を打ち消すものだった。
「あいつは死んでねェから。そんな心配すんなって」
すぐに表情を柔らかくし、強く言ってしまったことを男に詫びた。他の従者もそれを聞くと安堵したようで思い思いに屋敷の持ち場へと戻っていく。この場に残ったのは勇と信と信の従えていた五機ほどの騎兵だけだった。
「さっきは助かった。ありがとな勇」
信が口を開き、笑いかけてくる。自身の判断が間違っていなかったことに勇は安心し、思わず苦笑いを作ってしまった。関係を直接は見ていないが、世話をした自分だからこそわかった。戦が始まろうとも、あの関係は続いている。
「いえ。俺はあくまでもありそうだなと思ったことを言ったまでです」
「それでも助かった」
信は手を差し伸べ、勇の手を握ろうとしてきた。よっぽど窮地に立たされていたことがわかる。勇は服の裾で手を拭き、慌てて手を差し出すと両手で手のひらと手の甲をしっかりと力強く握ってくる。屋敷で相手をしていた時は特にわからなかったが、軍人らしく手のひらの皮が分厚く、豆の出来ている男らしい手だった。
「その、主様とは相変わらず」
「……ああ」
最後まで言わずとも、勇が何を尋ねようとしたか信は汲み取ってくれた。それに対し、信も勇ならばと首を小さく縦に振り肯定する。その瞳の色がほんの少し陰り、信にとっての陰の部分を引き出しているような気持ちになり勇は慌てて謝った。
「すみません。俺のようなやつが尋ねてしまい」
「お前だからこそ答えたんだ。気にすんな」
信は苦笑し、握られていた手を離す。後方にいた騎兵が一人降り、信に何か耳打ちをしていた。恐らくそろそろ帰らないといけないようで、信も首を縦に何回か振る。勇はこの一時が終わってしまうことを寂しく思った。信に出会ってから何かが変わった。以前より人と話すように努力をし、また困っていることがあれば自分に困りごとが降りかからない程度には手を貸すようにしている。
周りからどう思われようが構わない。勇はこの屋敷にいることで出来ることを精一杯行うことが大事なのだとこの男と知り合ってから分かったような気がした。
「ごめんな、そろそろ行っから。戦勝の報告待っててくれ」
「吉報、お待ちしております」
勇は深々と拝礼し、馬に乗る信を見送る。五騎の騎兵を率いて駆けていく後ろ姿はこの屋敷で見せる姿とは全く違い、兵たちの先陣を切り進む姿そのものだった。最後に一度振り返り大きく手を振った信に、勇は両手で目一杯大きく手を振り返し、後ろ姿が見えなくなるまでずっと振り続けていた。
また会えるその日は来るのか。勇は不安でならないが、今は信に言ったその言葉をただ祈りを捧げるかの如く信じるしかなかった。勇は屋敷へと戻っていく。この屋敷の下男として、主が帰ってくるその日をただ、待つしかない。