※名有りモブが出てきます
※モブとの恋愛はそれぞれなし



 主が国王から召集がかかったと聞き、屋敷は朝から慌ただしかった。普段から手は抜いていないが、より綺麗により美しくするために普段より念入りに掃除をしている。主はそういったことには特に口出しはしてこない。例え従者同士で衣服が乱れていようとも、特に咎められたことはなかった。その分、主自身の生い立ちやまた仲間に対しての言及をすれば次の日には即刻居なくなっている。どうなっているか勇は知りたくもなかった。
 信に最後に会ったのは一年と少し前だった。あれから季節は流れ、主と信は前線にほとんどいるらしい。落城した城内で二人とも作戦の要となっている、と時々主の軍の伝令が訪れ近況を伝えに来てくれていた。
 勇はその報告を心待ちにしているというよりかは、安堵するために聞きたかった。主は勇の雇い主で、信は会話をする仲だが常に戦況が分かるはずもなく、落ち着いた日々を送てはいない。
 それでも市場に行くと行商人たちは大騒ぎし、今はこれが売れる、次はきっとこれだろうと儲けをはじき出しながら物品を売り渡してくれた。
 勇は少し年を重ね、従者も入れ代わりがいくつかあり気がつくと指導している男の次の次ぐらいに古株になってしまった。残りの者は金品へ手を出したり、女中多数と関係を持ったりと風紀を乱すと言い渡され、屋敷から何人も追放されている。女中は事情が違うようで、屋敷の外で孕まされ身重で何も出来ないからと追い出されるようだった。
 贅沢をするわけでもなく、好いた女がいるわけでもない。この暮らしをなんとなくこなし、なんとなく過ごしている勇にとって、野望や志みたいなものは何も持ち合わせていなかった。
 勇は庭先を掃き、落ちた葉や花柄を摘み取っていると男が慌てて駆けてきた。今日は池の周りを主に掃除することになっており水面に葉が落ちる様子を掃除する手を止めながら眺めては再び掃き出すという、とてもゆっくりした動作で行っていた。男の様相は必死そのもので、遠くから声が聞こえていることに関係しているのかと勇は思った。
「勇」
「主殿が帰ってきましたか?」
「ああ。少々頼めるか?」
「分かりました」
 勇も年を重ね、言葉使いを多少改めるようになった。主が屋敷に不在とはいえ、艶書はひっきりなしに届いたり、また豪族が訪れ直接書簡を置いていったりと客人への対応が無いわけではなかった。
 それでも少なくはなってきているが、男が対応出来ない時には勇が主に対応するようになっていた。
 自身に粗相があれば主の面を汚してしまうことを念頭に置き、より丁寧に客人への接しを徹底していた。
 道具を片付け、急いで門の前へ行くと既に主は到着しており門をくぐって石畳を蹴っている。三日後には咸陽城内へ行かねばならず、その間には入浴、整髪、装束の仕立て直しとやることが山ほどあった。
「おかえりなさいませ、桓騎様」
「んー」
 深い拝礼を一度行い、腰を起こして視線を伏せながら帰投の挨拶を述べると聞いているのかいないのか曖昧な返事をして居室へと向かった。部屋には娼婦が用意されている。主は恐らく抱いてから準備をするのだろう。
 勇は姿が消えるまで低頭し続け、頃合いを見計らって姿勢を戻す。主のことをよく知らないが、少なくとも直接何かをされたことがないので好きや嫌いと言った感情はないが、信を容赦なく蹴り上げていたときには畏怖を覚えた。
 その後特に何事も起こらず、主が帰ってきたことだけが騒ぎとなっただけで済んだのだが、次の日。
 勇は炊事場で火起こしの準備をしていると、男が眉を潜めながら勇のところへやってきた。
「勇」
「どうかしました?」
 木がはじけ飛んでくる灰を拭きながら勇は立ち上がり、目礼をしてから男へ話しかけると、男が低く唸りながら勇へ言葉をかけた。
「お前に来てほしいと」
「来てほしいとは?」
「主様の居室だ」
「は?」
 思わぬことに勇は思わず脳天から出すような間の抜けた声を出してしまった。慌てて謝ると、男は首を横に振って気にしていないと付け加える。袖に腕を通し、考え込む仕草を見せている。
「お前には明日主様に装備して頂く具足を鍛冶屋へ取りに行ってもらおうと思ったのだが、仕方がない。私が行こう」
「主様はなぜ私を?」
「さあな。お前がいいんだと」
 火起こしの途中なので炊事場で違う準備をしていた下男と変わり、勇は主の室へと向かう。長い廊下には中庭と小さな低木があり、常に綺麗に整えられている。勇は外にある庭はいつも清掃しているが、中庭は立ち入ったことはなく、廊下を通る度に美しいと感じていた。主もこの中庭が好きなのだろうか。ぐるりと囲うようにしてある廊下は必ず主の居室向かう際には通らなくてはならない。勇でなくても他の従者達や主も必然的に見ることになる。
 そんな疑問を取り合ってくれなさそうな主がいったい自分に何のようだ、と思いながら急ぎ足で主の元へと向かった。
 扉の前に到着し、一声かけると奥から返事が聞こえゆっくりと戸を引く。部屋の中央に主がおり、半裸同然で立っており、明日着る召し物の仕立てを行っているらしい。三人程の女が主の周りで作業を行っている。
 主は両腕を軽く広げ、黒の絹織物へ腕を通しながら視線だけを寄越し、勇を確認すると直ぐに興味を失い女たちへと目線が落とされた。
 女たちは遠目からみても衣服が乱れ、時折白い方からずれ落ちてくる裾を直しながら、主の採寸を行っている。恐らくこの部屋で皆抱かれたのだろう。
「失礼します」
「あと少しだから待ってろ」
「はっ」
 小さく返事をし、隅で直立しながら室の様子を窺う。女達は手慣れているようで、直ぐに主の召し物を仕立てていく。高級感がある絹織物は自分では到底買えなさそうな艶やかな光沢と、透かしのような文様が入っており主が普段着ている装束とはまた異なった印象を与える色だった。女が主の前に行くと手を伸ばされいたずらに胸の突起を摘ままれるようで甲高く短い嬌声が響く。直接的すぎる声に、勇の陰茎が反応しかけたが女たちを見ないよう極力努めた。
 黒い装束に身を包み終え、女たちは一礼をしてそそくさと室から出ていく。廊下からは三人の話し声が響き渡り徐々に遠ざかって行った。
 勇はただ一人取り残され、主と二人きりになってしまう。以前信が屋敷に連れてこられた時に縛り上げられている時には言葉は発せなかったものの、信という存在がいたからこそ、主と対峙しても心細くはなかったが、今は全く違う。逃げる宛てのない室でこの屋敷の絶対的な主は容赦なく人を斬り捨てる。勇は覚悟を決めておくしかなかった。
「なあ、お前」
「はっ」
「あいつと仲が良いんだろ」
 あいつとは恐らく信の事だ。仲が良いとは言い切れないが、少なくとも屋敷に訪れた時には信が自分と話す相手になっている。勇は否定も肯定もせず顔を俯けたままどう答えようか考えていると、床を歩く足音がゆっくりこちらへと近づいてくる。裸足のままなのでひたひたと、主には似つかわしくない音が静かに室に響く。
「あれの世話をよくしてるが」
「それは……指示があるので」
「ま、そうだな」
 勇の前に立ちふさがり、自分より巨躯の主は必然的に見下ろす形を取られた。視線が痛いほど勇に突き刺さる。顔を上げずとも分かる怜悧な瞳は勇を静かに見下ろしていた。
「俺がなんであれを抱いていると思う?」
 あれ、とは恐らく信の事だろう。主は特定の女に入れ込んでいる気配がない。時々見かける娼婦たちの顔ぶれはいつも違っていた。同じ女は恐らく抱かないのだろう。つまり、勇と仲の良かった桐も1回抱かれただけで孕んだということなのだろうか。ここで今思いついた疑問を口に出せるような場面ではない。勇は目を伏せたまま、静かに口を開く。
「……屈服させたいからでしょうか?」
「確かに、あいつが俺に屈服する姿もいい」
 答えに満足をしたのか、参内する装束を翻し寝台まで歩いていく。
 勇は心の中で安堵し、僅かに顔をあげて主がどんな表情で話しているかが気になった。返答に対して機嫌は損ねてはいないらしく、いつもの不敵に軽い笑みを浮かべ寝台に腰を下ろして主がここまでこいと手のひらを天井にやり、指四本で手招きをした。勇はその指示に大人しく従い直立していた場所から足を踏み出した。
 主と数歩のところまで近づき、深く拝礼をする。顔を上げると主は膝に肘をついて、勇を眺めている。主と面と向かうのはこれが初めてだった。殺気は抑えられているが、己が許しているもの以外触れるもの全てを斬る、という雰囲気が常に纏われておりこれ以上近づくことを許されていない気がして勇は再び床へ顔を俯けた。
 不意にふっと気配が緩まる。その気配に勇は気がつき顔を上げると主と目が合った。それから唇を優美に開いていく。
「あれは、時々重なる」
 勇は何に、と尋ねてみたかった。黒く何かに対して執着をしている瞳はどこから来ているのか。もちろん勇は一下男なので、主と対等に渡り合えるはずがない。それでも信を何度も抱く様子は事後の世話の時にぽろりとこぼされたりしている。権利が例えなくても、ほんのわずかだけでも知れるのならば次に信に会えた時に伝えることができるかもしれないと勇は微かな希望を抱く。
 閉じられた唇が再び開こうとしているのが見え、勇は直ぐさま思考をかき消し主の声に集中した。
「重なって見えているのは幻覚じゃねェかってな」
 寝台の上に置かれている卓に手を伸ばし、青銅器に注がれているものを一気に呷る。一度目礼してから卓に同じように置かれている水差しを手を差し伸べると酒の匂いが漂ってきた。主に断りを入れて、杯に並々と注ぐ。
 主の視線は勇ではなく床のどこかを見ていた。表情は分からないがいつもより暴慢さがいくらか消えているのは気持ちが凪いでいるからかもしれないと勇は感じた。
 勇は目礼し、再び主の前に行く。一度頭を下げて今度は主がどんな気持ちで今開口しているのか非常に気になった。真っ直ぐは見られなかったがやや床に視線を伏せながら、続く言葉を待っている。
 「何度抱いても、答えは出てこない。だから、それがわかるまであれを暴き続ける」
 主の複雑すぎるとも言える感情は計り知れなかった。勇にはそんな相手はおらず、ましてや主に過去に何があったか分からない。気持ちに寄り添うことが出来ず、かといってはいそうですね、と同意しても阿ることになり斬り捨てられるだろう。しかしここで信が嫌がっているから抱くなとも言えない。
 勇はどうしていいか分からず、手を握りしめ口を開くべきなのか、そうではないのかひたすら思考を巡らす。勇に返答を求めていないのかもしれないと思うと、余計に唇が固まっていくのがよくわかった。
「お前はあれをどう思う?」
「……失礼ながら、私ごときが」
「俺が尋ねてんだろ。答えろ」
 震える唇で返答をしてみたがやはり主には受け入れられず、問いかけには答えなければならないらしい。ここは素直に受け入れるべきだと判断した勇は、唾を呑み小さく息を吐いてから言葉を出した。
「恐れ多くも、信殿とは仲良くさせて頂いてます」
「ほう。どんな風に? お前もあれを抱いてんのかよ」
「そういった仲ではありません。また私のような微賤の出の者が信殿を抱くなどできる筈がありません」
「俺が抱いた後のあれの世話してんだろ」
「はい」
「あれは何をお前に話す?」
 そう突然言われても、信の主との事後は端から見るとどろどろになっているとしか言いようがない。それでも信は自分に痛みや辛さは見せず、かと言えば嫌いという心情は余ることなく吐露する。本当に嫌っているのが伝わってくるが、それは恐らく目の前にいる主も同じだろう。そんなことはいちいち勇が言わなくても解っているだろうし、何を伝えていいか分からず勇は口ごもりながらしばし思案した。
 即答を求めている訳ではない主との間には沈黙が広がる。時折卓と青銅器が触れる小さい音だけが室に響いた。
 あ、と目を丸くしてふと思い出す。前回信とあった時の事だった。
「主様は亡くなっていないと強く否定されました」
「俺が?」
 主の表情をほんの少し盗みみると、意外そうに片眉を上げ酒器に口をつけ一口飲飲んでいる。まだ残っているようだが勇は注ぎ足そうと水差しを持ったが手で制止された。
「事実ここにいるから、確かに死んでねェな」
 確認をするかのように主は自分の首を回す。首をはねられていたら、そもそもこの場にはいない。ただ、あんなに強く否定した信をみるのは初めてだったので驚いたと付け加えるか悩み、結局止めてしまったが、その意図が主に届いているか勇には量りかねた。生きていることを改めて認識するかのように酒器を手に持ち、残りの酒を小さく丸く揺らす。そのも波が面白いのか主は暫く眺めながら何かの思いに耽っている。
 主は口数が多くない。気を許している者には違うかもしれないが、屋敷にいると話しかけても二、三言で会話が済んでしまうと男から聞いている。こちらとしては楽だが、あんなに簡単に決めてしまって良いのだろうか、といつも不思議がっていたが主は屋敷には興味が無く、寝場所、抱く場所としか思ってないかもしれないと勇はうっすら感じた。
 それ以上に深く思考を巡らせることが多いのだろう。勝ち方はどうあれ常勝し続けていると言われている桓騎軍の大将の主は、思慮は深い。しかし聞くところによるやり方は信に軍配が上がる。
「もういい。下がれ」
「はっ」
 主は興を削がれたのか勇を下がらせた。一度拝礼をし、室を後にする。背から声がかけられることもなく、扉は静かに閉じられた。勇はどっと疲れが吹き出す。常に緊張を強いられる主との会話は精神的な負担が大きく、まずは思考を先にしないといけない。反応が遅れてもいけないと思うと余計口が回らなくなった。
 勇はあれで良かったのか、と廊下で一人やりとりを振り返る。主の機嫌は損ねていない。受け答えも勇自身の中では出来ていたと思うが、主がどう思ったかは勿論分からない。それでも、あんなに語気を強めた信が印象的で言ってみたものの、それをどう受け止めるかは主次第だった。
 終わったと男に報告をしなければならない。明日は拝命の儀が宮内で行われる。新調される具足を着こなす主も見たかったが、明日は市場に出かける用事があり、それも叶わない。
 もう一度やりとりを振り返りつつ主の胸中をし、熟考しながらただただ廊下を歩いた。
 
 翌日。市場への買い出しが終わり、昼餉を開かれていた酒場で取る。安い酒と肴は自分の僅かに出ている給仕から賄っているが、屋敷からなかなか外に出ない勇の楽しみになっている。店内は混み合い、至る所に酔っ払いが寝ており、床に座って飲んでいる者もいる。取っ組み合いが始まり、客たちがわいのわいのと持て囃す。勇は適当な場所に座り、注文を取っている店員に一番安い酒と肴を頼んだ。店内の周りを眺めているとすぐさま持って来られ、勇は気分を跳ねさせながら木の酒器へ指を掛けようとすると、隣の席に座った男の会話が聞こえ、どうやらそれは今日の拝命の儀の話題だとわかり、勇は聞き耳を立てた。
「秦の六将だとよ。誰になるんだろうな」
「王翦は決まりだろう。蒙武も入りそうだ」
 勇は口を挟んでみたかったが、ほかの武将たちの名前は知らず会話を盗み聞きするだけだった。酒をちびちび飲みながら、進んでいく男達の会話に心の中で武将の名を色々知っていると感心をする。
 「まっ、六将が決まれば秦が中原を統一するも同然だな」
 それだけ言い放ち、男達の話題は変わってしまった。主の名は最後まで出てこず、少し寂しい気持ちになるが勇は首を傾げた。自分が寂しい気持ちになるのはおかしいだろう。昨日のやりとりの中で主という存在に少し近づけたことにより、寂しいという気持ちが湧き上がったのかもしれない。勇は半分ほど残っていた酒を一気に飲み干し、残っていた肴をかき込んで店を後にした。昼は過ぎ、そろそろ陽が傾く時間になっている。他に寄り道しても今日の自分の務めは既に終わっているので咎められたりはしないがこれと言って思いつかず、屋敷へ戻ることにした。馬に乗れない勇の手段は自分の足で歩くしかない。土が踏み固められた道をのんびり歩く。畦道には子供たちの笑い声が響き、風も穏やかに吹いていた。荷物を両手に抱えながらぼんやりと歩いていると、いつの間にか屋敷の目の前まで来ていたが遠目で門の前で馬上から話している主が目に止まる。
 流石に気が付かない振りは出来ず、そのまま歩いて門戸まで進むと、主の軍の将校らしき男が主に喋りかける声が聞こえてきた。
「お頭、このまま戻るんすか?」
「いや、寄るとこがある」
「女のところです? 俺も咸陽の女をたまには抱きたいんすけど」
「バーカ。女じゃねェよ」
「なら、何処へ?」
 馬上の男が主に疑問を投げかけると、咸陽の宮廷ではなく、外れの方角へ顔を向けた。
「まあ、ちょっとな」
 会いたい人物がいるのだろうか。勇は口に出さず主に一度頭を下げそのまま門をくぐり抜ける。主はちらりと視線を一瞬だけ寄越し、また先ほどと同じ方向を見たようだった。
「お気をつけて」
 先ほどまで主と言葉を交わしていた家令の男が主に声を掛けると顔を向けていた方向へ馬首を回し、一緒に来ていた将校と駆けていってしまった。
 主は肝心な事を口に出さない。それが主の美学であり信条でもあるのかもしれない。それを慕う者もたくさんいるだろうが、呼び出されている信はそれが好きではなさそうだと勇は思った。視線だけで全てを語るのには言葉が足らない。
「勇」
「あっ、ただいま戻りました」
 礼を伝え、割り当てられた室へ戻ろうとしていた時に声をかけられる。謝辞を述べられ、手にしていた物品をどうするか尋ねると持ってきてほしいと言われ、共に屋敷へ戻ることにした。
「主様、顔を出してくれましたね。てっきり屋敷へは戻らずそのまま戦場へ赴くと思っていました」
「そのことなのだが」
 男は何かを考え込むような、それでいて深刻そうな顔を勇へと向ける。酷く不安げな表情が浮かび、勇は思わず次の言葉を呑んだ。
「今まで主様は屋敷へふらりと帰ってきてはこちらに少しだけ伝えてあとはご自身の好きなようにされていた」
 想像に難くない。勇が何度か見かけた主の姿そのものだった。
「しかし、今日は事細かに指示を預かり、主様はもう帰ってこないかもしれない。信様は死んでいないと言われて安堵したが、今日は……あまりにも……」
 男は言葉を詰まらせて、その場に立ち尽くしながら足を進めずにいた。先を行ってしまっていた勇は気がつき体を引き戻すと男は顔を俯け、地面の土に雨の降り始めのような染みが男の面の下だけに出来ているのがわかる。
 どんなに酷く扱われようが、従者は従者なのだ。そこに感情が乗らなくても、顔を合わせていれば情が出てきてしまう。勇よりこの男の方が時を長く共にしているのでより強く思いを入れ込んでしまうのだろう。感情を持て余している。勇が信を心配するのと何ら変わりなかった。
「生きて帰ってきて下さいますよ。俺は信殿が恐らく活躍されると思いますよ」
「そうだろうか」
 男が鼻を鳴らし、手の甲で頬を拭いながら顔を上げる。皺だらけになりながら潤んでいる瞳が事実を物語っていた。勇は少しだけ口角の端を持ち上げ男に軽く微笑む。
「そうですよ。信殿が主様を助けて下さいます」
「だといいが」
 男の足取りは軽快などとは程遠い。引きずるように足を運びながら庭を通り過ぎる。
 この秀麗な庭もいつか見納めになることがあるのだろうか。上手く思い描けない先の話は、勇は分かろうとしない振りをしたまま庭から顔を背けた。
 一介の従者は無事帰還出来ることを祈ることしか出来ない。