※名有りモブが出てきます
※モブとの恋愛はそれぞれなし
※桓騎の死描写が出てきます
主が六将を拝命されてから一年以上経つ。咸陽の一角で下男をしている勇には戦の状況が常に聞こえる訳ではなく、市場で商人が会話をしていたり噂好きの男達が面白おかしく喋っているのを耳にしたりするだけだった。主が不在の屋敷はどことなく活気はなく家令の男と勇をはじめとする従者が毎日掃除をし、主がいつ帰ってきても良いようしておくのが勤めだった。日頃より粗食を食べているので昨今の水不足による麦や粟が採れなっている影響もあまり受けずに済んでいるのも、屋敷の一角で暮らしているお陰かもしれないと勇は思っていた。
白い髪が目立ってきた家令の男に使いを頼まれて、市場に足を運ぶ。世話になってきた男も足腰が弱まり、指示を出すときは座っていることの方が多くなってきた。主とどういった繋がりがあるのかは聞かされていないが、聞いたところで頷くことしか出来なさそうな話に勇はあまり興味を持っていなかった。
主と同じくして戦に出ている彼はどうしているだろうか。屋敷で交流を持ち、分け隔てなく接してくれた飛信隊の隊長――信のことを思い出していた。前線で無茶とも思える働きをしているのだろうか。兵法は全く分からない勇は聞いた話だけで、信の活躍を思い描いてみたが、馬に乗り走っている姿しか分からない。武器を持つ信の姿があまり想像が出来ないからで、屈託のない笑顔を向けてくれる彼は他ならぬ勇の数少ない心を開ける人物だからだった。
市場へ到着すると、いつもとは少し異なった雰囲気を受けた。どう、と言われても表現出来ない。勇はその違和を感じつつ人々が行き交う市場へと足を踏み入れる。
勇のような平民や下男、女子供はつつがなく過ごしているが、商人や市場に買い付けに来ている豪族であろう装束を着ている者たちの様子がどうにもおかしく思えた。家令に頼まれた品を幾つかの商店を回り、袋へと投げ込んでいく。そろそろ重たくなってきたので一度休憩をと思い、近くにあった茶屋の前で立ち止まった。
茅葺きの屋根で木貼りの建物に入ると、いつになく暗いどんよりとした空気が漂っている。給仕している者たちは忙しなく働いている半面、腰掛けている者達は前に訪れた時よりも活気がなくなっていた。
荷物を脇に下ろし空いている椅子に腰を掛け、給仕に声をかけるとすぐに勇の元へやってきた。
「何にしましょう」
「茶を一杯」
給仕が会釈し、その場を去ると相席になり向かいあう形で座っていた髪の毛がほとんど無い老人が、顔を俯けながら酒をすすって炙られた小魚を食べていた。
「あの、ちょっと良いですか?」
「おん?」
「今日、やけに雰囲気が重たいような…」
小魚を摘まもうとした老人に声をかけて店内がどうにも重苦しいことに勇は顔を近づけて尋ねてみる。給仕から茶を出され一言礼を伝えると、興味がなさそうに別の客の下へさっさと行ってしまい、老人と勇が顔を突き合わせる形となって会話を続けた。小魚を咀嚼し、土で作られた器を手にし、酒を一口飲み下してから老人は座った目で勇の双眸を射抜いていた。
「若いの知らんのか? みんな噂しとるぞ」
「何をです?」
「領主様が戦で亡くなったらしい」
勇は脳天から足先まで雷で貫かれたような衝撃を覚えた。目を丸くし、老人から出た言葉をうまく飲み下せない。領主、と言うのは屋敷の主――桓騎のことで土地を帝から与えられ、名目上は治めていることになっていたが実態はこの土地にもともといた豪族にほぼ任せきりと聞いていた。時折身なりの良い老人達が主につきまとって何かも言っているのを目にしたのは既に遠い日のことになっていた。
ぎこちない動作で、勇は茶の陶器に口をつけた。渋みを感じられずまるで湯のように味が無い。
「そんなに驚いたか」
「え、ええ、……まあ……領主様、ですし」
「わし達の暮らしは変わらん。領主様が変わろうとも穀物を作らにゃならんしの」
平民たちの仕事は変わらない。領主様が変わって税が重くなることもあれば若干軽くなることもある。その辺りは次に治めにくる者次第と言ったところだが、勇は違った。屋敷、そして主に直接使えている下男であり農作物を作っているわけではなかった。
気持ちを落ち着けようともう一口茶を口に含んだがやはり味はしない。それほどまでに動揺していることが勇自身で分かったのは半分ほど飲んでからのことだった。
「そんな気落ちなさんな。また別の誰かが来る。長年この土地に住み着いているが何度も領主様は変わった」
「……」
「しかし、今回の領主様は少し変わっておられた。商人や豪族には厳しく重税をしていたようだが、貧しく虐げられていた者たちに新しく仕事を与えたりしていたよ」
主の知らない一面を垣間見た。屋敷にいれば畑を耕し、牛の世話をする者たちのことなど分からない。老人の一言によって、外でどういった事を成しているかほんの少し分かった気がした。
勇は冷めかけた茶を啜りながら老人の話を静かに聞いていた。老人は思い出話が楽しいのかだんだん気が大きくなり声に抑揚がつき始める。今日初めて出会った何も知らない老人の話を時々頷きつつ、しかし聞き流し亡くなったと噂されている主の事を勇は思い出していた。口数は少なく常に見下すような眼を向け、他人とは一線を引き必要以上に関わってこない主の事を勇は何一つ知らなかった。知ろうしていなかったとも言えた。
「若いの」
「えっ」
「聞かれとるぞ」
勇はとっさに顔を上げ老人の顔を見ると、几の脇に立っている給仕に指を向けた。茶は既に底をつき、それに気がついたであろう給仕が次の注文が無いかと勇に視線を送っていた。
老人の長話に付き合っているほど暇じゃないと心の中で悪態をつき、椅子から立ち上がる。
給仕にご馳走様と一言伝え、勇は荷物も持ち店を出る。老人の言ったことが信じられず心中に靄がかかり市場を歩いている人間が、全て主が戦で死んだ噂をしているのではないかと疑心ばかりが溢れ出し他の店を回ろうと思っていたが勇は屋敷に戻ることにした。
帰り道、舗装されていない道をとぼとぼと一人歩く。荷物がやけに重たく感じるのは気のせいだろうか。勇は老人に言われた一言を頭の中で復唱している。領主様が亡くなった。そんな天地がひっくり返っても信じられないようなことがあるのだろうか。いつも自信があり気な笑みを含み、噂だと戦に置いては他の軍とは頭一つ飛び出して負けがなかったらしい。今回はそれほどまでに趙という国の敵が強かったのだろうか。勇が考えたところで知り得ないことは想像でしかしかなく、答えはいつまで経っても見つからないままだった。
いつの間にか屋敷の門までたどり着き、敷地を跨ぐ。屋敷の様子は相変わらず主不在の為か皆のんびりとそれぞれの雑務をこなしていた。家令の男がいるであろう室まで戻り、顔をみるなり頭を下げた。
「ただいま戻りました」
「ああ。すまなかったな」
買ってきた品を片し、腰をかけてくれと男に促され水差しから土で焼かれた陶器に水がそそがれる。勇の心はいまだにこの屋敷に戻ってきている感じがせず、市場に置き去りにされているようで老人から告げられた一言はまだとどまっている。吐き出せたなら楽になれるのだろうか、と勇は顔を上げて男の顔を見た。皺がかなり増え白いものも混じり、冗談口を交えながら屋敷でも仕事もそろそろ終わりかと最近口にすることが多い男まで去ってしまうのは、流石に悲しかった。従者たちはみな止めないで、と言っておりかく言う勇もその内の一人だった。
桐が孕まされ、この屋敷から居なくなってから早三年が過ぎようとしている。お腹の子は大きくなったのだろうか、と今更ながら勇はふと思い出した。既に桐の顔は思い出せなくなるほど、色褪せた過去に先ほどの老人の思い出話とは対照的だと感じた。もしかしたらあの友人は思い出を語ることによっていつまでも鮮明に輝いているのではないのだろうか。
勇は自身の至らなかった考えを恥じ、それから口を開こうとしたその時、室の扉がけたたましく開いた。
「お話中、失礼します。今すぐ屋敷の門へお越しください。主様の伝令の者が来ております」
「主様の?」
「勇、お前もだ」
嫌な予感がした。当たって欲しくない予感は並大抵のことが無い限りはずれはしない。家令の男に目配せをして、腰をかけていた椅子から立ち上がり男を支えながら立ち上がらせた。肩を貸しながら一歩一歩確実に門まで向かって行く。踏みしめている足取りはしっかりとしているが、時折男の口からため息らしき吐息が聞こえる。もしかしたら同じように悪い予感がしているのではないかと思ったが勇は口に出さずそのまま廊下を静かに歩いた。
空は広く晴れ渡る。魚の鱗のような雲が広がり、夏の耐え難い暑さからようやく涼やかな季節へと移り変わり空も高く澄んでいる。洗濯も気持ちよく乾きそうなこの空気の中で、不穏さが潜んでいた。
渡り廊下を抜け、勇と家令の男はいよいよ門の前にやってきた。屋敷中の従者たちがみな一同に集まり、伝令の前で雑談をしている。誰かが家令のナを呼び伝令までの道が拓かれると勇は男を支えながら馬上にいる伝令の前までやってきた。
泥だらけの主の軍の男は、会ったことはない。しかし、覇気がないのは見てすぐに分かった。どことなく肩を落とし、家令の顔を見るなり涙ぐみそうになり顔を逸らす。何か合ったに違いないと一瞬で分かる仕草はおそらく後ろにいる従者たちもみな同じ印象を受けているだろう。
伝令が手の甲で涙を拭き、一息吸った。
「お頭が、討たれた」
勇はああ、やはりと肩を落とすしかなかった。噂を耳にしてからずっとそうではないと信じないようにしていたが言葉も出ず、ただ頭を垂れるだけだった。他の者は噂だったことを知っていたのか口々に思いを言葉にし、独り言のように呟く。肩を支えていた家令の男の体重が余計にのしかかったのは恐らく脱力する他なかったのだろう。勇は力を入れ、男にお気を確かにと激を飛ばすがそれどころでは無いようで、仕方なく床にへたり込こませた。
「主様……桓騎様がお亡くなりに……」
「ああ。おめェらもつらいだろうけど、それは桓騎軍も一緒だからよ」
伝令の男は声を詰まらせ、流している涙を拭うことなく家令の男に言い渡していた。
伝令の泣き顔を見る。ここに来るまでに幾たびも流していたのであろう涙の乾いた筋が太陽の光に反射し、白い跡が残っていた。
勇は一歩踏み出して、伝令に尋ねた。
「他に」
「あ?」
「他に、私たちへの言伝はないのですか?」
「ねェよ。それは俺達も同じだ」
主が将をしていた軍の規模は秦国内でも大きく、伝令の話によると相当な数が討たれたようだがそれでも全ての者が戦場で亡くなった訳ではない。残った者はこれからを考えねばならないのは、男の言うとおり勇達従者だけではなく伝令をはじめとする主の軍の者たちも同等だった。ただ、彼らには恐らく住処はあるのだろう。勇達下男、下女達はまずは住む場所から探さなくてはいけないという決定的な違いがあった。伝令は手のひらで涙を強く拭き、他にも自軍の将軍の死を伝えなければならない者が多々いるのか早々にその場を立ち去った。
へたり込んでしばらく動けない家令の男にかける言葉が見つからず、後ろにいる下男、下女達は自分達のこれからの行く末を皆心配していた。
集まったもの達は身寄りがない者ばかりでここから放り出されたらどこへ行くか考えなければならない。宮中の官吏が来るのはそう遠くない未来だと容易に想像が出来た。
「荷物まとめておこうか」
「調度品は国に収められるのかしら。一つぐらい頂いてもきっと罰は当たらないわ」
「止めとけ。盗品だと分かったら捕まってさらにひどい仕事をさせられる」
みなこれからの不安を口々に並べ、次第に脱力感と無力感がその場を包み散り散りになってどこかへ行ってしまった。その場に取り残された勇と、未だに立ち上がれない男をそのままにしておくのも気が引け立ち尽くしている。
「あの……」
「私は……主様に恩返しが何も出来なかった……」
勇がこの屋敷に来る前からいる男の方が主を失った悲しみに、遥かに包まれている。勇は何も言えず男をただ見守るしかなく静かに目を伏せていた。主とは取り分けて思い出があるわけでは無かった。特に飛信隊の隊長がここに呼び出される前までは殆ど言葉を交わしたこともなく、ただ使えている一介の下っ端の従者でしか無かった。信が来てから一変し、屋敷で主と信が一緒の時に命を下されるようになり、拝命式の前に至っては呼び出されるまでとなっていた。あの時に、本当に少しだけ主の性根を知られた気がするが今となっては尋ねることも出来ない。
「そんなこと、ないと思います。主様は恩返しして欲しくて俺達を置いてるわけじゃないですし」
「……だったら、何のために……」
そろそろ陽が落ち始める頃合いになる。これ以上冷たくなる土の上にいても年を召している身体にはこたえるだろうと勇は思い、男の腕を取って身体を立ち上がらせた。門の前に来た時とは全く違い足に力が入らないようで勇へ体重がかかってくる。必死に支えながら門の前から立ち去り、引きずるように男と一緒に室まで戻った。
男を寝台に座らせ、心ここにあらずといった男にせめて水と塩だけはとってくださいと伝え、その場を後にした。勇の割り当てられた狭い室へ向かう途中、中庭の景色を眺める。あと何回この景色も見られるのだろうか。中庭からの空は相変わらず晴れている。主の顔をなんとなく思い出してみたが真正面から見ることが少なく、だがあの真っ黒く深い池の底のような瞳に射抜かれ首の後ろから汗が流れ出したことをなんとなく思い出した。
身体の脇を抜けていく風が徐々に冷たくなっていく。身体を冷やさないようにと勇は中庭から視線を外し、室へと戻って行った。
荷物をまとめる準備をしないと。ここの屋敷と主に使えた歳月の積み重ねを荷物の量で思い知らされることになるのはもうすぐだ。