※名有りモブが出てきます
主が戦場で討たれた、と伝令から報告を聞いてから十日ほど経った。荷物はまとめられがらんとした室にあるのはもともと備え付けられていた寝台と小さな棚、そして几と椅子と燭だけになった。
宮中から官吏が来訪し家令の男と話し合った結果、今日が立ち退きの最後の日となった。勇は次の仕事を探す気力が湧かず、今日までぼんやりとしながら身の回りの物をまとめていた。
男が言うには建物は取り壊し一度預かってから、再び違う功績があった将へ分配する、と官吏から伝えられたという。この地に主がいたという証は何もなくなると思うと胸が少しだけ痛んだ。
他の従者はその話を聞くなりさっさと出て行く者、勇と同じくぼんやり過ごす者、家令の男と同じく嘆き悲しんでいる者と様々な反応をして見せたが結局皆ここから出て行くことには変わりなかった。
「勇」
室の扉を開くと家令の男が立っていた。いつからそこにいるかは分からないが、小さな荷物を一つだけ持ち勇に声を掛けた。
「どうかしましたか?」
誰の顔も見ず、さっさと出て行こうと思っていた勇にとって男の待ち伏せは驚きを隠せず、目を丸くしながら男に用事かと尋ねると何も言わず歩き出した。敷地の外までついて来いということだろうか。愛想があまり無いのはこの屋敷に来た当初からだが四年ほど経った今もそれはあまり変わらなかった。その分少しの表情で感情が分かるようになり男もそれなりに感情の起伏があるということを勇は知っている。
主と同じく誰かに対して深く感情を入れ込まないようにしているつもりだったが、信と出会ってからは随分と変わった。信はもちろん、居なくなった桐、家令の男、他の従者達、そして主と続く。勇が今まで生きてきた中で一番濃厚な生活を送った日々だった。
ここへ来た時の事、信の相手をしろと言われた日の事、信の事、信と主との関係の事、桐との事。様々な感情が去来し、廊下を歩いている途中で勇は立ち止まった。
日は南中に昇りかけ、庭の木々を明るく照らす。鶏冠のような花が燃えるように赤く咲いていた。風に吹かれて時折揺れる。元に戻れるその芯の強さを勇は眺めていた。
「勇」
「はい」
「お前、泣いているのか?」
男に指摘され頬に手をやると気がつかないうちに下瞼の中心からとめどなく溢れ出てくる涙は何を表現しているのか分からなかった。この屋敷から離れる寂しさなのか、積み重ねた日々に対しての口惜しさなのか、主が討たれたという今更ながらの悔しさなのか。勇は初めての出来事に戸惑い慌てて手のひらで涙を拭ったがそれでも次から次へと流れ出し、胸中の思いは綯い交ぜとなり勇自身にも判別がつかなくなっていく。男は勇がこの屋敷にいる中で初めて見せた感情にどう声を掛けていいか迷っているようで、咎めずただ勇を静穏に見ているだけだった。
ひとしきり泣いた後、頬骨についた乾いた涙の跡を強く擦り何も言わず再び門へと歩き出した。男もそれに続くようにして勇と共にする。
二人以外の他の者は既に屋敷から荷物を持ち散り散りとなってしまった。勇には何人か挨拶をしに来たが、全員ではない。それは家令の男も同様だったらしく、従者同士にはあまり仲間意識というものがなかったように思えた。それは主であった桓騎の性分に似ていたのかもしれない。
「あの、次の仕事は決まっているのですか?」
門の前で立ち止まり最後に口に出せなかった疑問をついに尋ねてみると顔面に皺を作りながら男は苦笑した。
「いや、こんな老いぼれを採ってくれる方が稀であろう」
「でも、主様に長年使えていたのですから」
「どうだろうな。ここのところ水不足で穀物は不作と聞くし、桓騎様のように我々従者にまで食わせてくれる屋敷などそうそうないだろう。覚悟が必要だぞ、勇」
勇も次の仕事は決まっていない。また道端で生活する羽目になるかもしれず、それが一日か一年か十年かは予想がつかなかった。男が勇の脇を通り抜け門を潜り、敷地を跨ぐ。道には農民が荷車を引きながら歩いている者だけで見通しがよく、旅立ちにはうってつけかもしれないと勇は検討違いの事を考えながら男の目を見た。
「またな、勇。生きていればまた会うかもしれない」
「はい。ありがとうございました」
「元気でな」
そう言うと男は踵を返し何処かへと向かってしまった。背中が見えなくなるまで見送ろうとその場で徐々に小さくなっていく男の背中を見守る。
この屋敷にきて何かが変わった。何かは勇には分からなかったがそれでも様々な出会いと経験が勇自身を大きく変えたことは間違いない。
その変化は次の仕事に繋がるかは分からない。それでも勇はこの屋敷にいた数年を大事にしてこれからを生きていく。また見送っている男も等しい感情を抱いているに違いない。
見えなくなりそうな男に深く拝礼をする。そして、背を起こし屋敷に向かって拝礼をした。
明日への自身にほんの僅かな希望を持ち男の背が消えたのを確認して勇は男と違う方向へ歩き出す。またいつか、この屋敷で顔を合わせたもの達に成長したと報告できるように、勇は晴れやかな気持ちで足を踏みしめて知らない道を歩んでいく。